啼鳥 - 2 - | ナノ

啼鳥  2

 屋敷はざわめいていた。金や銀の髪を低い位置で束ねた女中たちが、水盆やら手拭いやらをもって慌ただしく廊下を行き来している。
 屋敷の主が薬師を呼び、奥方を診させているところだ。
 薬師の見立てによると、どうやら奥方が懐妊したとの話は真実のようだった。
 薬師や侍女達はみな畏まり、繰り返し祝福の言葉を捧げている。
 ──寡黙な主・殺生丸はいつもに増して、何を考えているのかわからない。
 褥に横たわる奥方は、ほんのりと朱を刷いた目尻に涙を浮かべて、この吉報を喜んでいる。
「あなた、お喜び下さいませ。偉大なる犬妖怪の血を継いだ子が、ここにおりまする」
 喜びに打ち震える声で、夫の冷たい手を取った。まだ肉付きのない薄い腹の上に、その手を乗せる。これ以上の幸福はないというように微笑みを浮かべている。
 殺生丸はその手を邪険に振り払った。
 唐突に、その場は水を打ったように静まり返った。
 奥方のみならず、薬師や侍女達までもが瞠目する。
「あなた……?」
 四方八方から向けられる鬱陶しい視線を振り払うように、殺生丸は立ち上がる。
 彼は己の心が見えなかった。
 偉大なる父の血を後世に継ぐ、由緒正しき子が生まれる。混じり気のない妖怪の子である。にもかかわらず、こうして女の腹に触れてみても、情などまるで湧いてこない──。
 戸惑いと苛立ちはすぐさま言葉尻に表れた。殺生丸は冷淡な口調で問う。
「──これは、本当に私の子か」
 奥方の顔色が瞬時にして蒼白になる。夫ときわめて近しい同族であることを明かす黄金の瞳は、結ぶべき焦点を失った。周囲に控えていた一同もまた凍り付く。
 厳冬の最中にまで冷え込んだ空気の中、殺生丸は物言わず踵を返した。
「あ、あなた!一体、どちらへ行かれるのですか……?」
 今にも泣きだしそうな奥方を、夫は鬱陶しそうに振り返る。その口元には、普段滅多に見ることのできない微笑みが浮かんでいた。いっそのこと無表情の方がどれほど慈悲深いことかと思われる、残酷な笑い方だった。
「どこへ行く、だと?……知れたことを。『あれ』の元へ行くに決まっているではないか」
 奥方の肩がぶるぶると震え出す。
「何故あなたは、わたくしにかくもつれなくなさるのです──?人間の小娘ごときには、こんなにもお情けをかけられているというのに……」
 妻の涙ながらの言葉を受けても、鉄の面に変化の兆しはなかった。開け放たれた花鳥風月の襖の奥に、薄情な背は消えていく。
「わたくしは、あなたの御子を──あなたの望むものを、手に入れて差し上げたのに!」
 閉じられた襖に向かって、痛切に叫ぶなり、奥方は腹を抱えて泣き崩れた。


 薄暗い廊下を一人渡りながら、珍しく殺生丸は疲労を覚えていた。歩調が少しずつ遅くなり、そしてしまいには完全に立ち止まった。
 今宵も変わらずに、寵姫のもとへゆこうと思っていた。が、何故かそれ以上は歩みが進まなかった。
 いつも通りの廊下がとてつもなく長く感じられる。
 歩いても歩いても、どこへも辿り着けないような気がした。
 殺生丸は静かに踵を返した。遠空の彼方では、欠けた月が朧気な光を大地に落としていた。




To be continued

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