The devil's own luck



 確か最初は、ちょっとした野次馬根性だったと思う。

 風の噂で小さい頃からの腐れ縁だった死神に子供が生まれたことを知った。聞くところによれば、父親によく似た男の子だという。あの小憎たらしい顔と瓜二つの子供など想像するだけでいまいましく、悪魔ははるばる現世まで会いに行こうなどとはゆめゆめ考えもしなかった。
 それから数年と間を置かず、今度は死神の彼が娘を授かったらしいと耳にした。兄と同じように現世で生を受け、手塩にかけて育てられているというこの娘。どうやら容貌は人間である母親の生き写しらしく、死神の父親から目に入れても痛くないほど溺愛されているらしい。
 ここにきて悪魔は初めて、死神のもとに生まれた子供に興味をもった。
 もちろん、息子にではない。死神が蝶よ花よと育てる娘の方に、である。
 好奇心に突き動かされるままに悪魔は現世へ渡った。死神と人間の夫婦が二人の愛すべき子供達とともに暮らす家は、三界という町ののどかな住宅街にあった。猫の額ほどの敷地でこぢんまりとしてはいるものの、子供が遊べる広さの庭があり、小さな花壇には可愛らしい花が咲いている。いまにも家の中から笑い声が聞こえてきそうな、近所のどこよりも日当たりのよさそうな、明るくて幸福に満ちた家だった。
 地獄の高級住宅街で誰もがうらやむ豪邸に住む悪魔からしてみれば、鼻で笑ってしまうようなちっぽけな家でしかないはずだった。けれど悪魔はなぜか、その家をひやかしてあざ笑う気にはなれなかった。
 わだかまりを抱えながらも屋根の上で様子窺いをしていると、家の中から小さな子供が元気よく飛び出してきた。顔周りの髪を三つ編みにして頭の後ろに束ね、残りの髪は首の後ろでおろしている。
 どことなく、見覚えのあるくせ毛だ。
 人形のような身体を覆うのは、優しげな色合いの丸みを帯びた幼児服。小さなショベルとバケツを手にしている。家の中から男の子の呼ぶ声が聞こえるが、その子は無視して小さな花壇のそばにしゃがみこむと、なにやら熱心に土を掘り始めた。
 一体何をしているのだろう、と悪魔は気に掛かった。
 もうすこし、近付いてみようか──。
 下降し始めたとき、翼のはばたきに気付いたらしい娘がぱっと顔をあげた。姿を見られてはまずい、と悪魔が空へ引き返しかけたときにはもう遅かった。
「──コウモリさん!」
 中空にうかぶ彼を指差して、娘が笑う。
 コウモリのような下等生物と高貴な悪魔を一緒にするなと言い返したくなるが、子供相手にむきになったところでどうにもならない、と思い直す。
 娘が死神の父親と霊感体質の母親から受けついだ霊視の力は、この世ならざる者の姿を、確かにその目にうつすことができるようだ。
 こっそり高みの見物に興じるだけのつもりだったが、姿を見られてしまったからには仕方がない。悪魔は気を取り直して、なるべく愛想良く見えるように微笑みをつくろった。
「ごきげんよう、お嬢さん。きみのお名前は?」
 子供が大きな目をくりくり言わせて答えた。赤みがかったその瞳だけは父親譲りなのだろう。
「おにいさんは、だれ?」
「僕かい?僕はね──」
 名乗りかけてふと思い留まった。人差し指を唇にあてて、悪魔は声を落とす。
「──ねえ、お嬢さん。僕のことは、きみのパパとママには秘密だよ」
 ひみつ、と舌っ足らずな声で少女がくりかえす。
「秘密にしてくれたら、いつかいいものをあげよう」
「ほんとう?」
 死神の娘は嬉しそうに小さな身体を揺すった。
 死の国に棲む者にはめったにお目にかかることのできない、生きている人間の、屈託のない笑顔を浮かべて。

「目が赤くて変、って隣の男の子にいわれたの。おにいさんもそう思う?」 
 子供はまだ身の丈にあわない大きなランドセルを背負って、とぼとぼと通学路を歩いている。T字路で友達と別れてひとりになってから家に着くまでのほんの五分ほどのこの道のりを、悪魔は時おり気まぐれに付き添ってみたりする。
「変ではないと思うよ。赤い目って、うさぎみたいでかわいいじゃないか」
 らしくもなく慰めの言葉をかけてしまう。肩を落として歩く娘の姿に、どうも調子が狂ってしまっている。
 近頃は自分の「悪魔らしさ」を疑ってしまうような行動や言動が多いことを彼は自覚してはいるが、この娘といるとつい、自分が心の狭い悪魔であることを忘れてしまいがちだ。
 枯れかけた花のようにしおれていた少女は、悪魔の慰めに水を得た。地面すれすれで浮かんでいる彼の手をとり、小さな手でしっかりと握り締める。突然の触れあいにおどろいて立ち止まる彼。生身の人間の手はあたたかい。だがなぜこうして繋ぎたがるのかわからない。問いかけるように落とした視線を、少女の赤い目が受け止める。
「おにいさんは、悪魔なの?」
 彼はその手を振り解くことができない。
 かといって、握り返すこともしない。
「そうだよ。──僕は、悪魔だ」
 黒く長い翼を伸ばして、小さな身体を囲い込むようにする。
 娘はおびえるでもなく、まっすぐに彼を見上げている。
「おにいさんは、優しい悪魔?」
「いいや。地獄で一番、心の狭い悪魔さ」
「うさぎさんのことが好きなのに?」
 にこにこと笑っている。このまま地獄に連れ去られるかもしれないとか、魂を抜かれてしまうかもしれないとか、そういうことには考えも及ばないらしい。
 その怖いもの知らずな性格は、どちらから受け継いだものだろう?
 多分、あの母親譲りに違いない──と彼は思った。
 
「私の名前、漢字だとこの一文字で書けるでしょ?でも、なんだか読み方を間違えられそうで、ひらがなにしたんだって」
 罫線ノートにボールペンで書かれた漢字。簡単な一字ではあるが、なるほど彼にも、読み方を一度であてられる自信はなかった。
 あまりじっとその漢字を見つめていたせいだろう。傍らで少女が見当違いなことを口にした。
「そっか。悪魔さん、漢字が苦手なんだよね」
 悪魔はむきになって彼女の肩を小突いてやる。
「大人を馬鹿にするな。このくらいの漢字は書ける」
 円、という字。
 彼女の名前はひらがなで、まどか、と書く。
 輪を連想させる名前だ。死神の父親がつけたものだろうか、と彼は考える。
 ──命の輪を繋ぐ死神。そして、その輪を断ち切ろうとする悪魔。
 表があれば裏があるように、死神と悪魔はつねに対極にある。いにしえの時代から決して相いれることはなく、住む世界さえ隔ててきた。
 そしてこの少女は、死神の娘だ。母親譲りの愛らしい姿をしていても、人の血が流れていても、ひょっとするといずれは悪魔にあだをなすかもしれない存在だ。
 そんな少女と出会ったことは、悪魔である彼にとって、思いがけぬ幸運なのか、あるいは不運なのか。
「──きみはまだ、僕のことを秘密にしているのかい?」
 少女がノートを閉じていたずらっぽく笑う。人差し指を唇にあてる仕草は、きっといつかの彼を真似たものだろう。
「誰にも言ってない。パパにも、ママにも、お兄ちゃんにも。秘密にしていたら、いつかいいものをくれる、ってあなたは言ったでしょう?」
 そんなことを言ったかもしれない。悪魔はいつもの癖で、少女の柔らかな髪を撫でていた。
「物覚えのいい子だな。しょうがない、約束は約束だ、ほしいものがあるなら言ってごらん」
「あなたの名前」
 即答だった。身構えていただけに、なんだそんなものかと拍子抜けしてしまう。
「教えたこと、なかったっけ?」
「一度も教えてもらってないよ」
 少女は唇をとがらせる。
「ずるいよ。私は一番最初に教えたのに、あなたはいつまでも教えてくれないんだもの」
「そうだった?」
 とっくに教えていたと思い込んでいた。そういえば一度も名前を呼ばれていなかったと気付く。
「耳を貸して。僕の名前はね──」
 顔を近付けてみてふと、彼は見馴れた少女の横顔が、驚くほど母親に似ていることを思い知らされる。
 真宮桜。
 今はもうその名をもたない、あの人。
 十年以上も前に見た花嫁姿が、今もまだ記憶に新しい。
「──魔狭人」
 呼ばれて心臓がはね上がった。あの花嫁ではなく、隣にいる少女の声だというのに。やはりよく似ている。姿かたちだけでなく声までも。
「あなたの名前は、魔狭人っていうのね」 

「きみをもらいたいと挨拶しに行ったら、きっと、りんねくんに殺されるだろうなあ」
 家に入っていく少女の背を見送りながら、冗談めかして悪魔はぼやいた。
 ロリコンとかストーカーとか散々なことを言われた挙句、袋叩きの目に遭うかもしれない。その恐ろしさについ身震いしてしまう。彼は自分が打たれ弱いことを自覚している。そしてあの死神は、物静かなように見えて意外と凶暴だ。危ない橋は渡らないに越したことはないだろう。
 名残惜しくていつまでもその場に留まっていたことが災いした。背後から、誰かにぽん、と肩を叩かれた。
「ひいっ!」
 情けない声をあげてしまう。もしや、今の台詞を本人に聞かれたのだろうか──。肝を冷やしながらおそるおそる振り返ると、そこにいたのは買い物袋を提げた主婦だった。
 よく知っている顔だ。知りすぎている、といってもいい。思わぬ邂逅にあっけにとられていると、相手が彼の顔をのぞき込んで「あっ」と声をあげた。
「誰かと思ったら、魔狭人くんじゃない?」
 六道桜が懐かしそうに目を細める。
「随分と大人っぽくなったね。一目見ただけじゃ気付かなかった」
「そういうお前こそ、しばらく見ないうちに老けたな」
 ぶっきらぼうに言い捨てるが、悪意はない。本音でもなかった。若くして結婚した彼女は、今もまだ三十代に留まっている。とても高校生の子供が二人いるようには見えない。
「年相応にもなるよね。すっかりお母さんになっちゃったもん」
 桜は玄関のインターホンを鳴らしかけて、思い出したように振り返った。
「ところで魔狭人くん、ここでなにしてたの?もしかして、うちの人に用事でもあった?」
 うちの人。
 当然のことのように言ってのける。
 わかってはいたものの、魔狭人が受けた衝撃は大きかった。
「晩ご飯までには帰ってくると思うよ。中で待ってる?」
 魔狭人は思わず後ずさる。はぐれ鳥のようにさびしそうな目だ。けれど桜の目には彼の不運は映らない。彼女は、買い物袋の中身をこれからキッチンでどうさばくのかで頭がいっぱいだ。
「今日はさつまいものシチューにしようと思って、買い物に行ってきたの。ちょうどさつまいもがおいしい季節だから。もし時間があれば、魔狭人くんも食べていってね?うちは、お客様はいつでも大歓迎だから」
 玄関のドアがあいて中から顔が覗いた。「ママ、おかえりなさい」桜は娘を振り返り、笑顔でただいまと言った。買い物袋を受け取りながら、娘のまどかがきく。
「さっき声がしたけど、もしかしてお客さん?」
「そうなの。パパとママの昔からの知り合いでね──」
 魔狭人は静かに踵を返した。これ以上の長居は無用だった。



 偶然を、必然と呼ぶこともあるという。
 あの日からしばらく経ち、彼がショッピングセンターの駐車場で、車から降りてきた六道家の娘と鉢合わせしたことは、はたしてどちらといえるだろう。
 まどかはもう六道姓ではなく、結婚して別の姓を得ていた。彼女の腕の中にはまだ生まれて数月と満たない赤ん坊が眠っていて、その子はどことなく母親の面影を感じさせる女の子だった。
「悪魔ってずっと若いままなんだね。私、やっとあなたに追いついてきたみたい」
 もう少女ではなくなった彼女が笑っている。娘がこれだけ大人になったのなら、母親の桜もそれなりに年を食っているに違いない。
 魔狭人はかがんで、眠る赤ん坊の頬を指でそっとつついてみた。けれど指先に、柔らかそうな肌の感触が得られない。
 ああ、そうか、と思い至る。
「この子は、幽霊が見えないんだな」
 まどかが頷く。赤ん坊の父親は、霊感をもたない普通の人間なのだという。だがどのみち、死神の血が薄れてしまうことは避けられなかっただろう。純粋な死神の先祖は、この子から遡って四代も前の、たった一人だけなのだから。
 この子は、あの世との繋がりをもたずに生まれてきた。
 あの世の住人である魔狭人は、この赤ん坊の目に映ることはないのだ。声が届くこともなければ、触れることさえかなわない──。
 もう、彼女達を引き留める名目はなかった。踵を返して去ろうとする彼の背中を、待ってと彼女の声が追いかけた。
「私、ちょっとだけ、あなたのことが好きだったよ」
 振り返らずに、悪魔は顔をゆがめる。口が裂けても言うものかと決めていたはずなのに、もう押しとどめておくことはできなかった。
「僕は、悔しいくらい、好きだった」
 まどかが屈託なく笑う。背中を向けているため顔は見えないが、少なくとも声の調子ではそう思えた。
「わかってる。ママのことが、でしょう?」

 どちらとも、あえて円を繋ごうとはしなかった。
 途切れさせたそのままで、すぎていく時の中に、置き去りにしてしまうことを選択した。

 走り去っていく赤い車を、翼をゆったりと広げた悪魔は、風の吹きすさぶ上空を漂いながら静かに見送っている。
 彼の手には一冊の帳簿がある。命数管理局で記死神がつけている寿命の記録ではなく、彼が勤める地獄の閻魔府に保管されている、罪人の名簿だ。
 魔狭人はゆっくりとそのページを開く。そこには今日、新たに地獄行きになる予定だった、ある人物の名が記されていた。けれどその人物の辿るはずだった悲惨な運命は、たった今、第三者の介入によってねじ曲げられたので、みるみるうちにその記述は薄れていく。
「お人好しな悪魔なんて、もう、悪魔じゃないよな」
 魔狭人は笑う。自分のとった行動があまりにも滑稽で、腹を抱えて笑ってしまう。
 わかっている。これは悪魔としてあるまじき行為だ。私情をはさんで罪人になるはずだった人間の運命を変える。それは決して許されることではない。
 けれど、そうとわかっていても、ほうってはおけなかった。みすみす運命が舵をとるのを、黙って見過ごすわけにはいかなかった──。

 まどかは今日、命を落とす運命にあった。
 幼い娘を乗せた車でショッピングセンターからの帰路を走行中、交差点で右から突っ切ってきた信号無視のトラックをよけようとして、彼女はハンドル操作を誤る。車体はガードレールにしたたかに打ち付けられ、後部座席のチャイルドシートに乗せられた娘は即死。まどか自身も病院に搬送されるが、まもなく息を引き取ることになる。
 その、理不尽な娘殺しの罪によって、まどかは地獄送りになるはずだったのだ。

 彼女の悲惨な運命を知った魔狭人は、何としてでもこれを阻止しなければと思い立った。
 だが彼女の車がとまっているはずのショッピングセンターの駐車場は、連休で車が所狭しと並んでおり、そのどれに彼女と娘が乗っているかは見当もつかなかった。
 間に合うかどうかは、本当に賭けだった。
 いよいよ時間が迫り、焦り始めた時に、その、今にも走り出しそうな赤い車が目にとまったのだ。
 見つけてしまえば、あとは少しばかり引き留めるだけで良かった。

 地獄の役所仕事はとにかくずさんだ。万が一今回のことがばれたとしても、三下の鬼達に賄賂を渡してもみ消せばいい。もし閻魔府に居られなくなったとしても、たいした問題ではない。本来働かなくても、彼には十分すぎるほどの資産があるのだから。
 魔狭人はもう用済みとなった名簿を閉じる。見守っていた赤い車はもう、道の果てまで行ってしまったらしい。目を凝らしても見つけることはできなかった。

 あの子との縁は、ここまでだ。
 円は途切れてしまった。
 もう二度と、会うことはないだろう。

「いいか?せっかくこの僕が拾ってやった命、無駄になんかするなよ」

 恩着せがましい、とは言わせない。
 あの子こそが、悪魔に悪魔らしからぬ心を抱かせた張本人なのだから。




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