※シリアス、ダーク、後味の悪いバッドエンド
庭の添水の音に聴き入っていたりんは、怯えて身をすくめた。
その衣擦れの音だけで、誰がこの部屋に近づいてきているかは明らかだった。
恐れおののいて息をひそめているうちに、足音はひたりととまり、襖が無遠慮に開かれる。
誰かの姿が見える前に、りんは畳に額がつくかというくらいに、低く頭を下げた。
馥郁たる花の香りが、部屋の中に立ち篭める──。
「随分と早起きではないか」
山の高みから見下すかのような、横柄な口調でその女は言った。りんの心臓が縮み上がりそうになる。不快感を露わにした視線が降ってくるのが、顔を上げずとも分かった。
「昨晩も、あの御方はさぞかし励まれたことであろうな」
「……」
「ほんに物好きな御方よ。わたくしには理解できぬ。何故、あの御方ほどの大妖怪が、お前のような卑しい生き物をねんごろになさるのか」
輝く銀髪を背に流し、金襴をまとった美貌の女妖怪は膝をつく。りんの髪に挿してある金の簪を、柳のような細い指ですっと引き抜いた。
当惑するりんの眼差しを受けて、夏の湖さえも凍りつくような冷ややかな笑みを浮かべる。
「これはあの御方からの贈り物か?」
「……」
「そうなのであろう?」
どうかお返しください──りんの瞳にじわりと絶望の涙が浮かんだ。妖怪は、酷薄に金色の瞳を細める。
「あの御方の正室はこのわたくし。あの御方に真に相応しい妻も、あの御方の御子を孕む女も、このわたくし。お前のごとき卑しい人間の小娘など、あの御方の気まぐれでお情けを頂戴しているにすぎぬ。──お前にも分かっているのであろう?」
幼女に語りかけるような柔和な声色が、殊更深々とりんの胸を抉る。
「妾など幾らでも替えは見つかろう。だが、正室はただ一人。わたくしとお前ごときとでは、値打ちが違うのだ」
突然、奥方がりんの簪が振り上げた。尖った切先が、朝日を照り返して美しくきらめく。女は怖気の走るような笑みを浮かべていた。
りんは呼吸すら忘れて身を竦めていた。
ずぶり、と物が深々と突き刺さる嫌な音がした。
簪が畳に突き立てられ、折れた部分が畳に転がっている。
あっけなく壊された贈り物を、人間の娘は震える手で拾い上げる。
「よいことを、教えてやろうか」
正妻が声をひそめて言った。りんは涙の滲む瞳で、優越感にたわむ金色の瞳を見る。
その瞳は悲しいほど、彼の瞳とよく似ていた。
「──この腹には、あの御方の御子が宿っているのだ」
緞子の袖で赤く熟れた唇を覆う。堪えきれなくなったように、肩を揺らしてククッと笑みをこぼす。
氷像のように凍りついた人間の小娘が、滑稽でたまらないというように。
「汚らしい半妖などではない。正統なる血を引く、由緒正しき妖犬の御子ぞ──!」
勝ち誇った高笑い。りんはそれをどこか遠くで聞いていた。まるで対岸から届く声を聞いているかのように、現実味を欠いていた。
鼻持ちならぬ妾にとどめを刺したことで満足したらしい正室は、再び衣擦れの音をさせながら、座敷を後にした。
高みに昇りつめた太陽が次第に傾き始めた。円窓からのびる光が悠々と、部屋の中を動いていく。りんは膝に顔をうずめて泣いた。もう、何もかもを目にしていたくなかった。
その夜、りんがどれほど息を凝らして待ち続けようと、待ち人が彼女の部屋を訪れることはなかった──。
back