禊を行うのは心身共に清らかであるため。水の温度が冷えてくる時期になると、一層身の引き締まる思いがする。 鎮守の森は今日も清浄な空気をまとっている。今宵月のない夜に行なった禊により、桔梗の霊力はますます高められた。明日の朝、山菜採りに訪れる村人達には、この森の外気がよりすがすがしいものに感じられるはずだ。 滝壺から出てくると、桔梗は冷えきった身体を夜風にさらした。霊力が研ぎ澄まされていくのを感じていると、ふと頭上の木に気配を感じた。 「誰だ」 答えを聞かずともすぐに分かった。暗がりでその姿は見えないが、こうして彼女の周りに現れるのはただ一人。 「結界を張ったはずだ。縄の先に半妖のお前が入ってこられるはずがない。なぜそこにいる?」 けっ、と相手が不愉快そうにそっぽを向くのが目に見えるようだ。 「相変わらず目ざとい女だぜ。──安心しろ。今夜は休戦だ」 「休戦、だと?」 「お前と小競り合う気分じゃねえってことだ」 今宵は新月。月の出ない闇深き夜。 桔梗は注意深く、姿の見えない少年の気配を窺う。 「では、お前はそこで何をしている?」 「おとなしく夜明かししてるだけだ。文句あるか」 「お前、私の結界の中に居て平気なのか?」 しばらく返事がなかった。無視されたらしいと桔梗が諦めかけた時、ふたたび声が落ちてきた。 「たいした力だ」 褒められているのか、揶揄されているのか、判然としない。黙っていると、今度はほとんど聞き取れないほどの声で彼が言った。 「……このまま眠れそうだ」 桔梗は眉根をひそめる。なぜか少年からは妖気が感じられない。普段の覇気もない。狐ではなく犬につままれた気分だ。 ──いつぶりだろう、新月の夜に眠るのは。 少年の呟きは、巫女の耳元には届かなかった。 back |