彼は勝てないのではなく、勝たないのだ。
 シャンプーがそのことに気づいたのは、いつのことだっただろう。
「おはよう、おらのシャンプー!」
 今日も朝っぱらから、唇をアヒルのように突き出して迫ってくる幼馴染み。考えるよりも先に条件反射で蹴りが入る。攻撃された顎を抑えて悶絶するムース。いい気味だ、と思う。砕かれなかっただけありがたく思え。
「油売ってないで、さっさと仕込みに取りかかるね。今日も忙しい」
「相変わらずつれないのう。でもおらは、そんな冷たいシャンプーも好きじゃ」
 ムースはにこにこしながら食材を切っているシャンプーの顔を覗き込む。うるさいと顔をどけようとした時、彼が彼女の鼻先で、長い袖から魔法のようにひょこっと一輪の花を出してみせた。淡いピンクのコスモスだ。摘みたてなのだろう、花びらがまだ朝露にぬれている。
 邪魔な袖を捲し上げて、ムースは長い髪をひとつにしばった。
「さあて、今日も元気に婿修行じゃ!」
 誰が婿じゃい!と、厨房にはいってきたコロンに杖で小突かれるのはお約束。猿の干物、などと余計なことを言ってさらに殴られるのも、これまた茶飯事。
 シャンプーはかまうのも馬鹿らしくなって着々と仕込みを続ける。
 ──もし万が一にも、この男に負ける時が来るとしたら。
 いや、きっとそんなことは有り得ないのだけれど。
 その時にはきっと、私にも焼きが回ったということなんだろう。

 

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