Goodbye, summer




 この夏が終わっても、きっと自分達は何も変わらない。夏が始まったときには、確かにそう思っていたけれど。

「──ねえ、六道くんったら!」
 肩を揺さぶられ、物思いに沈んでいた少年ははっと我に返った。
 七時限前の十分休み。長い夏休み明け初日の授業日ということもあり、一年四組の教室には朝から気だるげな雰囲気が漂っている。ぼんやりとしているのはりんねだけではないのだが、声をかけ続けても気付かないほど惚けている彼の様子に、ミホはただならぬ様子を感じとったらしい。
「六道くん、今日は変だよ。それに、桜ちゃんもなんだか……」
 ぎく、とりんねの肩がこわばる。ずっと頭のなかを占めていたその人の名に、つい身体が過剰反応してしまったのだ。目ざといミホは腕を組み、隠しごとを咎めるように、怪訝に眉をひそめた。
「その反応。やっぱり、すごくあやしい」
「あやしい?何を言っているのやらさっぱり──」
「じゃあさ、六道くん。桜ちゃんのこと、いま、まっすぐに見れる?」
 ミホになかば無理やり後ろを向かされた。
 桜は教室の後方、翼の席のところにいた。りんね達には背を向け、翼やリカ、他の生徒達と集って他愛もない雑談に興じている。今日の桜は、朝からりんねとは一言も言葉を交わしていなかった。いつもなら、まっ先に声をかける相手なのだが。それどころか、すぐ隣の席だというのに、りんねには目もくれなかった。授業中も、休み時間も、彼だけがまるで空気か霞のような扱いだ。リカが訝しむのも無理はなかった。
「六道くん、桜ちゃんと喧嘩でもしたの?」
 りんねは困ったように眉を下げ、いや、と横に首を振る。決して長い付き合いではないが、こんなに情けない表情をした彼をミホは見たことがない。
「じゃあ、どうして避けられてるの?六道くんが、桜ちゃんに何かしたんじゃないの?」
「それは──」
 りんねの視線の先で、桜が翼とリカに手を振って廊下に出ていくところだった。今日彼女は日直で、先生の資料運びを手伝わなくてはいけないのだ。
「ねえ、手伝いに行かないの?」
 ミホに急かされるよりも先に、りんねは自分に鞭打ち、椅子から立ち上がっていた。
 心臓がまた、あのときのように早鐘を打っていた。

「真宮桜」
 廊下の真ん中で桜が立ち止まる。追いかけて来られることは予想外だったとみえ、振り返ったその顔は驚きをたたえていた。
「どうしたの、六道くん」
「──それは、こちらの台詞なんだが」
 縦並びになっている一年生の教室のあちこちから、おどけた喋り声や椅子が床をひっかく音がしきりに聞こえてくる。十分しかない休み時間の、彼らはもう半分ほど費やしてしまっただろう。
 りんねは勇気を出して、一歩前に踏み出した。上履きのゴム底がリノリウム張りの床の上でキュッと音を立て、桜の肩がぴくりともちあがった。
「その、迷惑、だったのか?」
「──」
「だから、避けるのか?」
 遠慮がちな彼の問いかけに主語はない。けれど二人には、それが何のことかわかっていた。
 いつになくりんねは真剣な顔をしていて、桜はその顔を直視せずに、彼の襟刳あたりをじっと見つめている。
「じゃあ、六道くんは、平気なの」
「何が」
「ああいうことをして、それでもいつも通りにしていられる?」
 私はできないよ、と、内緒話のように囁く桜。休み時間はもう終わるのに、先生のところへ行かないければいけないのに、りんねは時間が止まったような感覚さえおぼえてそこから動かずにいる。
「六道くんと、もう今までみたいに仲良くできないよ。何事もなかったみたいに、朝、おはよう、なんて言えないし。お弁当なんて、とっても作れないし。クラブ棟にだってもう行けないよ。今までは毎日のようにお邪魔していたけど。だってそんなの、ただのクラスメートがすることじゃないよね?よく考えてみたら、全然違うよね?だから、」
 桜は首を振る。それ以上、色々と考えすぎてしまうことが億劫だとでもいうように。
「いっそ、あんなこと、なかったことにできたらいいのに──」
 あんなこと。あれをなかったことになど、できるはずがない。
 夏休み最後の週末。差し入れを届けてくれた桜を家まで送っていく途中、暑さで蜃気楼の漂う道ばたで──。
 昼下がりの青空、分厚い入道雲からひとすじの飛行機雲が伸びていた。青々と茂った街路樹から降りそそぐ蝉しぐれ。この前よりもちょっと数が減ったね、と耳をすませて、夏が終わってしまうことに心なしか残念そうにしている彼女が、なぜかとても可愛くて。
 近かった距離をさらにつめて。不思議そうに顔を上げた彼女の、むき出しの白い肩に手を添えて。さくらんぼの唇から声がこぼれ落ちないうちに、木陰に隠れてその唇をふさいだ。
「そんなに簡単に消せるものなら、最初から、こういうことはしない」
 ──晩夏の熱に浮かされたあのときと、りんねはまた、同じことをしていた。
 触れられた唇を指先でおさえて、桜は大きな目をさらに丸くしていた。こんなにびっくりしている彼女は、いつもは何事にも冷静沈着なだけに、なかなかお目にかかれない。
「真宮桜。こういうことは、きっと、」
 不謹慎にも笑ってしまいそうになって、りんねは懸命に頬をひきしめた。こういうことは、茶化したりせずに、まじめに伝えるべきなのだ。
「好きな相手にするものなんだろう?」
 合わなかった視線がようやくかちあった。一度では完全には意味を飲みこめなかったようで、桜はまだ狐につままれたような顔をしている。
「──六道くん?」
「すまない。きちんと言葉にして伝えなかった俺が悪かった」
 だからこれからは、今までよりももっと仲良くしてほしい。朝は誰よりも先に、おはようと言ってほしいし、できれば手作りの弁当も「ときどき」作ってきてほしい、できればじゃなくて「毎日」クラブ棟に会いにきてほしい。ただのクラスメートとしてではなく、掛け替えのない恋人として。決して損得勘定なんかじゃなく、誰でもいいわけでもなく、心の底から、彼女だけにそうしてほしいんだ。

 先生が来るまで、あと何分だろう。チャイムが鳴るまで、あと何秒だろう。
 時間よ止まれ、夏よ過ぎていくな、このまま二人だけを残して、永遠に止まってしまえばいい──。
 繋いだ手とともに、手のひらにはあまるほどの幸福を強く握りしめた。




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