fragments, aurora, angel




 ──その昔、悪魔が邪悪な鏡をつくりました。
 地獄の底で氷漬けになっている魔王からもらった、触れると心の奥底まできんと凍りつくかのような、つめたいつめたい氷の塊を使って。
 その鏡を覗いてしまうと、どんなに美しいものを目にしても、あらゆる物事が歪んで見えるようになるのです。
 悪魔はこの鏡をたいそう気に入り、ふと、これを好敵手の天使に見せてやって、いたずらしてみようかと思い立ちました。
 天使はいつでも正しい心をもっています。それがこの邪悪な鏡を見たらどんなことになるのか、悪魔は楽しみでしかたがありません。
 しかし、あまりにも興奮していたからでしょう、空を飛んでいるとき、誤って折角つくったその鏡を割ってしまいました。
 粉々に砕けた鏡はかけらになって降りそそぎました。運悪く下で遊んでいた可愛らしい少年が、きらきらしたものが落ちてくるのを不思議に思い、空を見上げてしまいました。
 鏡のかけらはつぶらな少年の目に、汚れを知らない心臓に、深々と突き刺さってしまいました。
 以来、生真面目で心優しかった少年は、別人のように不真面目で、自分勝手な子供になってしまいました。



 声をかけようとして、一瞬躊躇ってしまった。自分までぐるだと思われるかもしれない、そんな考えが頭を過ぎったのだ。
 けれど桜が迷っているうちに、あちらは彼女の視線に気付いてしまった。頬被りをして、風呂敷にくるんだ重そうな荷を背負ったいかにも「盗っ人猛々しい」その人は、にっこりと満面の笑顔で手を振ってくる。
「やあ、桜ちゃん!りんねは元気にしてるかい?」
 この窃盗犯は背後から鬼のような形相をした誰かが追いかけてきていることを自覚しているのだろうか、茶飲み友達に話しかけるような気楽さで桜に近づいてきた。とばっちりを受けることはごめんだが、気付かれた以上無碍にもできず、桜は溜息をつく。
「おとうさん、また盗みですか?」
「違うんだよ、桜ちゃん。ちょっと拝借して、すぐに返すつもりだったんだよ?」
 しらじらしい嘘を胡散臭い笑顔で言ってのける。まったく信じていなそうな桜の顔を彼は覗きこんで、息子とそっくりの顔で、けれど息子は絶対に言わなそうなことを口にした。
「せっかくだから、ちょっといいお店でお茶でもしようか。ついておいで」
 手首をつかまれて、あっと声をあげるまもなく、導かれた先は霊道だった。後ろを振り返ると、盗品を回収できなかったお店の人が、悔しそうに嘆いているのが渦のなかにほんの一瞬見えた。さすがに気の毒で、一体この人は何を盗んだんだろうと桜は気になった。
「桜ちゃんは気が付いた?あの骨董屋の店主、人間じゃなかったよ」
 口の端をもちあげて、鯖人が言葉を継ぐ。「売ってるものも、全部あの世のものだった。めずらしいね、現世で店まで構えて商売するなんて」
「へえ……。そのお店、どんなものが置いてあったんですか?」
「色々とね、ぱっと見がらくたにしか見えないけど、人間が扱うような代物じゃないものがたくさんあったよ。呪いの首飾りとか、厄受け人形とか、悪魔の鏡とか」
「おとうさんは、どうしてあの店のものを盗んだりしたんですか?」
 簡単なことさ、相変わらずの軽薄さで彼は言う。
「現世の珍品ってことにして、こっちで転売するためだよ。なかなかいい値がつきそうだろう?」

 ときどき桜は忘れてしまいそうになるが、六道鯖人は死神界随一のおたずね者だ。
 にもかかわらず、のこのこと「境界」の縁日通りに足を踏み入れたのがいけなかった。団子屋の店番が、ひょっとして以前食い逃げされた経験でもあるのだろうか、鯖人の顔を知っていたのだ。「堕魔死神カンパニーの社長がいるぞ!」と店の前を通り過ぎようとした鯖人を指差して、大声でまくし立てるものだから、ちょっとした騒ぎになってしまった。
 逃げる鯖人に抱き上げられて、桜も一緒になって空を飛んだ。桜は何も悪いことをしていないのに、とんだ逃避行だ。みるみるうちに縁日の出店通りが遠ざかっていく。
 鯖人は地団駄踏みたそうな顔をしている。いち早く逃げるために、転売し損じた盗品を全部置き去りにしてくるしかなかったのだ。
「あーあ、惜しかったなあ。せっかく桜ちゃんにおいしいケーキでもご馳走してあげようと思ったのに」
 残念そうにしているが、それを聞いてかえって桜はほっとした。
「盗品を売ったお金で奢ってもらうなんて、私できません」
「りんねみたいなこと言うね、桜ちゃんは」
 にやり、と彼は笑う。
「桜ちゃんがりんねに似てるのか、それともりんねが桜ちゃんに似てるのか。いったい、どっちなんだろうね?」
 死神界の最果てまでやってきた。光り輝く帯のように続いていた三途の川は、ここでその流れを塞き止められており、川の途切れた先にはかなりの距離を隔てて靄にかすむ地獄があった。
「ぼくが小さかったころ、おかあさまが死神界で用事がある時は、よくここで待っていたんだよ」
「こんな、地獄の近くで?」
 驚く桜に、鯖人は肩を竦めてみせる。
「近くもないさ。それにあの頃はまだ、おかあさまが人間のおとうさまと結婚したことをよく思わない連中もいたみたいだからね。ぼくが人目につく所をうろついてたら、火に油をそそぐようなものだろう?」
「──魂子さんから、ここで待っているように言われたんですか?」
「いや、ここがいいってぼくが言ったんだよ。ほら、ここでちょうど川が終わってるから、水の中に魚がいっぱいいてね。きれいで、あきもせずに見てたっけ」
 桜は水際まで近づいて、水面を覗きこんでみた。つぶらな目をした透明の小魚が、つかず離れずの距離をとって泳ぐ様子は、なるほど確かにすずしげだった。
 けれどここは人通りがまるでない。遊ぶところだってない。小さい子がひとりで待っているには、ひどく退屈な場所だろう。なのにおさない頃の鯖人は、あえてここで待っていると言った。きっと、母親に気を遣ったのだ。迷惑をかけたくなかったにちがいない。
「なんだか私、六道くんのおとうさんのこと、よくわからなくなりました」
 泥棒みたいなことをして、まるで人の気持ちを顧みない彼。自分よりも、母親のことを気遣う彼。いったいどっちが本当の姿なんだろう、と桜は思う。
 鯖人は桜に背を向けたまま、懐から古びた手鏡をとりだした。あの骨董屋からくすねてきたものだ。壊れていて、割れた鏡面に破片がまばらにくっついているだけの代物。ただのがらくたのはずなのに、なぜかこれだけは心にひっかかって、置いていけなかった。不思議に思いつつ、なぜかあまり見ていてはいけないような気がして、ふたたび懐にしまう。
 桜は膝をかかえたまま視線を上げていた。地獄の深い闇とぶつかるまで、あの世の開放的な空がどこまでも続いている。現世のような青一色の空ではない。淡い虹色の幕が垂れ下がり、風にゆったりと揺れているのを見守るかのような空だ。
「オーロラみたいですよね、ここの空って」
「オーロラ?」
 羽織の両袖に手を差し入れて、振り返った彼が首を傾げる。
「そんなにきれいなものかな?」
「おとうさんは、きれいだと思わないんですか?」 
「さあ……。ぼくはずっと死神界にいるから、見馴れたのかな」
 言いつつも鯖人は浮かない顔をしている。なぜだろう、目が、心臓が、ちくりと刺されたように傷む。
「昔は、ちゃんときれいに見えたはずなんだけどね」
 


 ──悪魔の鏡のかけらは深々と突き刺さったまま、数十年ものあいだ少年の目と心を蝕みつづけました。
 けれど彼はそのことに気が付きません。自分がもともとそういう歪んだ目と心を持っているのだと、思いこんでしまっているのです。
 時が流れ、まっとうな大人になれなかった少年の前に、天使のような少女が現れました。
 少女は正しい心をもっています。美しいものを見て、素直に「美しい」と言うことができます。
 そのときになって初めて、かつての少年は、自分の目と心に疑いを抱きました。
 物事が歪んで見えるのです。ずっと前はそんなことはありませんでした。どうして、今の今まで気が付かなかったのでしょう。
 鏡のかけらを取り除く鍵となるのは、壊れた手鏡と、オーロラの空と、それから天使みたいな少女。
 これはまだ、物語のはじまりに過ぎないのです。
 




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