花嫁探し


 約束は約束だ、と巨頭の魔女は突き放すように言った。
 煙草の煙をくゆらせながら、その奥にぼんやりと見える「元」弟子の人形のような顔を、目を細めて観察している。
「覚悟はできております。だからこそ、こうして逃げもかくれもせず、あなたのもとへ戻ってきたのです」
 龍の少年は揺るぎない眼差しをしている。目前に迫る死を恐れる様子は、微塵も見せない。かえってその凛とした姿に、鉄の女と謳われる魔女の胸もさすがにちくりと痛んだが、今更言質をとりかえすことはできない。決まり事は、決まり事。言葉は、言霊。激情にまかせてとりつけた押しつけがましい口約束さえも、この世界では何よりも強い「契約」となる。
「せめてもの情けだ。苦しまないように、一撃で送ってやろう」
 ハクは小さく頷き、やはり穏やかでどこか満ち足りた表情を浮かべ、両手をひろげた。私は逃げもかくれもしない、さだめのすべてを一身に受けとめる、と宣言するかのように。
「どうぞ、いつでもなさってください」
 吸殻を灰皿に押しつけると、湯婆婆は目を閉じ、迷いを払いおとすかのように何度か首を振る。確実に息の根をとめる急所を思い浮かべ、そこをねらって人差し指をうごかしかけた──そのとき、
「そのまじない、まかりならぬぞ」
 威厳に満ちた堂々たる声が、突如としてふたりきりの閑散とした書斎に響き渡った。
 湯婆婆は我が目を疑う。静かに約束の履行を待っていたハクも、突然のことに驚いて、つい数歩後ずさってしまう。
 机に向かう湯婆婆と、絨毯の上に立つハク。そのあいだに、この鉄壁の守りを誇る楼閣の一体どこからまぎれ込んだのか、見るも荘厳な出で立ちをした貴人が現れたのだ。
 連ねた真珠を左右に垂らし、細部にまで惜しげもなく青玉【サファイア】をちりばめた、まばゆい銀冠を頭に戴いている。そして、柄の先が珊瑚の形をしている、天辺から先まですべて水晶でできた矛を手にした、壮年とみられるその異相の男。
 明らかに、人間ではない。かといって、この世界に縛られる者でもない。トンネルの向こうに根付く八百万の神々とも、一線を隔てている。「天界」に属する雲上の存在であることは、その身から放たれる朗々とした神気によって、言葉よりもはっきりと思い知らされた。
「私は天海龍王。またの名を、天仙水将という」
 貴人が威厳ある声でそのように名乗ると、湯婆婆の顔色が変わった。天仙水将──あらゆる龍神の頂点にある者だ。水の気のあるところに、この龍王の目の行き届かぬところは、世界のどこにもないという。
 途方もなく強大な力をもった、「神のなかの神」だ。言うまでもなく、一介の魔女風情などが、到底敵う相手ではない。
 言葉をなくした魔女に興味が失せたのだろう。龍王ははたとハクに向き直り、
「王子、何を驚いておる。そなたはこの父の顔をわすれたか?」
 そんなことを言う。
 存じ上げません、と素直にハクは答えた。うむ、と厳粛な面持ちで龍王は頷く。
「無理もないことだ。この父が、そなたにまじないをかけたのだから」
「父──。お待ちください、もしや貴方様が、私の父上であられると?」
「にわかには信じられぬか。できることならまじないを解いてやりたいが、王子よ、そうもゆかぬのだ。そもそもそなたが天界より地上へ落とされたるゆえんは、あるしきたりに則ってのこと──そこから話し聞かせるべきか?」
 ハクの瞳に光が宿る。純粋な好奇心だった。
「そのしきたりについて、お聞かせ願えますか?」
「ああ、よいとも。だが、まずは魔女殿に、そなたを此処より連れ出すお伺いをたてねばなるまい」
 龍王は水晶の矛を握り直し、にっこりと魔女に笑いかけた。つい怖気がした魔女は、引き出しからおもむろに一枚の契約書をとりだすと、
「まったく。こういう特例は、あったためしがないよ」
 独りごちりつつ、それをぱっと燃やしてしまい、なかったことにした。


 いつかまた会えたらいい──心の底から願ってはいたものの、その願いがこんなに早く叶うとは思いもよらなかった。
 いつもの通学路の道端、神隠しの森に通じる入口のところに、その少年はいた。あの不思議の街で、名残惜しく思いながらもつないだ手を離したあの時と、寸分違わぬ姿で彼はふたたび千尋の手を握り締めた。
「千尋。どうやら私は、水神を統【す】べる天海龍王の王子だったそうだよ」
 再会の喜びをいったけわかち合うと、ハクはふいにそう打ち明けた。まるで他人事のような物言いで、千尋はつい笑ってしまう。
「だったそうだよ、って。ハク、もしかして自分のことなのに、憶えてなかったの?」
「うん。きれいさっぱりわすれていたし、今もそうだ」
 あっさりと返されて、千尋はぽかんと口を開けてしまった。話を続けるハクは、どこか楽しげですらある。
「龍王の王子には、年頃を迎えるとね、あるしきたりが課せられるそうなんだ。私はそのしきたりに則【のっと】って、天界の宮城から地上の小さな川に落とされた。千尋、そなたが溺れ、私と出会ったあの川だよ。──私があの川の主になったのはね、」
 千尋はどきりとした。隣に座っているハクが、千尋の肩を自分のほうに抱き寄せ、彼女の耳元に唇を近づけたのだ。
「──花嫁探しのため。しきたりというのは、天界ではなく地上で結婚相手を見つけるということ。そして、意中の相手と婚姻の約束をかわすまでは、天界での記憶を封じられる、というものだったんだ」
 それはつまり、
「ハクは今も、天界にいる家族のことを思い出せないの?」
 ハクはうなずく。
「でも、それはあまり重要なことではないよ。私にとって一番大切なことは、そのしきたりのおかげで、私が『意中の相手を見つけた』ということなんだ」
 目と目があった。ハクがにっこりと笑いかけてくるので、千尋も多少ぎこちなくはあるものの、笑い返してみた。するとハクが顔を寄せて、千尋の頬にそっと唇を押し当ててきた。
「千尋。そなたを、私の花嫁にしたい」
 千尋はいましがた触れられた頬を押さえて、目を瞬かせた。引きずりこまれそうなほど深い、翡翠の色をたたえたハクの瞳がすぐそばにある。頬にキスをされたことも、ハクの言っていることも、すぐにはとても理解しがたかった。頭のなかをぐるぐると色々な思いがかけめぐる。
「花嫁っていわれても……。わたし、まだ十歳だよ?」
「いとしい人と生涯添い遂げたいと願う気持ちに、年は関係ないよ。それに、おたがいにまだ幼くても、婚姻の約束くらいはできる」
 ハクの美しい瞳は、磨きたての玉のように輝いている。
「私が琥珀川に身を宿したのは、花嫁をさがすためだった。そして私は、千尋、そなたを選ぶことにした。そなた以外は考えられないからだ」
 それでも千尋は首を縦には振らない。熱っぽかったハクが、急に自信をなくしたように、しゅんと肩を落とす。
「千尋は、私のことがきらい?」
「そ、そんなことないけど──」
 威光に満ちあふれた声が割り入ったのは、千尋が先を続けようとした時だった。
「我が王子ながら、なんとももどかしくて、見ておられぬ」
 千尋は驚いてハクの腕にしがみついた。森の奥に通じる小道から、見知らぬ男が歩いてくるではないか。見たこともないくらい壮麗な衣装にその身をつつんでおり、千尋は目がくらみそうになる。彼が歩くたびに銀の冠から垂れ下がる真珠がぶつかりあい、サラサラとすずしげな音を立てていた。
「琥珀、何を手間取っておるのだ?いつまでこの私を待たせるつもりぞ?」
 水晶の矛先が脅すようにハクの鼻先でちらついた。千尋は何が起きているのかわからずびくびくするが、ハクはさして気にする様子もなく、指一本でこともなげにその鋒【きっさき】をどけた。
「事を急きたくはありません。私はまず、千尋の気持ちを確かめたい」
「何を悠長なことを。かつて私が『花嫁探し』に降り立った折には、渋るそなたの母を、問答無用で神域まで連れ帰ったものよ。あの時、そなたの母はまだ十にも満たぬ小娘であった──」
 なつかしそうに、とんでもないことを言っている壮年の男。
 誰だろうこの派手なおじさんは、といぶかしんでいた千尋は、なるほどこの人がハクのお父さんかと納得した。
 派手なおじさん、もとい天海龍王は、息子とよく似た端整な顔を千尋に向けてくる。
「そなたも小娘に違いないが、十にもなれば物の分別はつくであろう。率直にきくが、そなた、わが王子の妻となる覚悟はあるか?」
 覚悟、と言われても。困り果てる千尋に、龍王は質問を変えてきた。
「では、そなたは王子を好いておるか?」
 これは考えるまでもなく、すぐに答えられた。
「ハクのことは、好きです」
「よろしい」
 龍王はうなずき、ハクと千尋の手をとって、たがいに強く握らせた。
「そなたは夫に尽くすよき妻となるであろう。天仙水将の名において、ここに、そなたをわが第一王子の花嫁と認めよう」
 
 こうして千尋は、なにがなんだかまったくわからないうちに、龍の王子の「花嫁」にすえられてしまった。
 このあと、天界の御家騒動やら花嫁修業やら、色々なやっかいごとに巻き込まれることになるのだが、それはおいおい語ってゆくこととしよう。




2015.08.09  ハクの日記念
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