花嫁 - 10 - | ナノ

花嫁 - 10 -



 アシタカは鉞【まさかり】を地に下ろし、手の甲で額に浮かんだ汗をぬぐった。近頃気温が格段に下がってきているため、暖をとるのにより多くの薪が要る。前日のうちに里の男衆が切り倒してきた木を貰い受けてきて、朝方から黙々と薪割りに従事していたのだった。
 見れば太陽が空高く昇っている。休憩に入ったのか、タタラ場からは村の女達の談笑が聞こえてくる。昼餉の匂いが辺りに漂っていた。もう昼時かと思うとアシタカは空腹を覚えた。腹拵えをしてから残りの薪割りをやろう、と思った。
 鉞を担いで家に入ろうとした彼を、後方から誰かが呼び止めた。
「これから昼餉になさるのですか?」
 ああ、と彼はうなずいた。山菜の入った籠を手にして、村娘のタエが彼に微笑みかけていた。
 恰幅のいい女達の多いこの村の中では稀有なことに、華奢な体付きをした娘だ。大抵の村娘たちは髪をまとめあげて布の中に隠しているが、彼女は長い黒髪を腰の位置で束ねている。身体が丈夫ではないらしく、あまり外出をしないため、肌の色が抜けるように白い。どこか薄幸そうな雰囲気を醸している娘だった。
 アシタカは静かな瞳でタエを見詰めていた。無意識のうちに、彼女をサンと比較していた。何もかもが正反対だと思った。
 視線に恥じ入ったように、タエは頬を染めた。踵を返して自分の家へ帰っていく。その後ろ姿を見送りながらも、アシタカの頭の中に浮かぶのは、他の娘の姿だった。
「──サン」
 溜息と共にアシタカの唇からその名がこぼれる。
 つまらない意地を張るのはやめにして、今日こそ彼女に会いに行こう、と心に決めた。


 落陽の頃合いに薪割りを終えたアシタカは、アカシシに跨って森へ向かった。久方振りのもののけの森への来訪に、道行くヤックルの足取りは軽やかだ。どうやらこの相棒も、森と、もののけ姫が恋しかったらしい。
「サンは許してくれるだろうか。何日も意地を張り続けていた私を、ひどく怒っているに違いない──」
 鞍からおりて手綱を引きながら、アシタカは珍しく心もとない声で呟いた。
 彼を勇気づけるかのように、ヤックルはひと啼きして、鼻先を彼の肩に擦り寄せる。
「ありがとう、ヤックル」
 毛並みを撫でてやりながら、アシタカが優しくいった。
 しばらく森の中を進むと、前方から小川のせせらぎが聴こえてきた。ちょうど喉を潤したかったところだったので、立ち寄っていくことにする。
 鬱蒼と茂った木々の間を通り抜け岩場に出る。
 アシタカは、急に立ち竦んで目をみはった。
 ──落陽に染め上げられた川で、サンが水浴びをしていた。
 二人の間はほんの数間ほどの距離しかなかった。が、アシタカに背を向けて腰まで水面に浸かっている彼女は、どうやら彼には気付いていないようだった。ぼんやりとうわの空でいる様子が、微動だにしない背中から窺える。
 声を掛けなければ、とアシタカは思った。しかしそんな思いとは裏腹に、自分のひと声によって、その密やかな禊ぎの儀式が終わってしまうことが惜しかった。いけないことだとわかっていても、その背から目が離せない。
 幾度も重ねてきた人間たちとの戦闘の名残だろうか、その小さな背中には幾筋もの裂傷が見て取れた。まろやかな曲線はまごうことなく年頃の娘のそれだが、肌に深く刻み込まれた痛々しいその傷痕が、サンという少女を「唯の人間の娘」から隔絶する。
 人にはあらず、また、もののけにもあらず。その狭間で懊悩しながらも、もののけ達と心を通わせ、森とともに生きてきた娘。
 いばらの道を歩んできた彼女の、苦難を偲ばせるその痛ましい傷痕までもが、アシタカは愛おしかった。
 何故、この娘に、こんなにも心惹かれてやまないのだろう。
 傷だらけの彼女が、何故、こんなにも美しく見えてしまうのだろう。
 いつの間にか、落陽を全身に受けたサンが彼を見詰めていた。朱色に染まった滴が、彼女の肌の上を滑った。裸身を何かで覆い隠すこともせず、燃え盛る炎のような瞳でアシタカの心を焦がす。
 アシタカはその名を呼んだ。しかし、唇から漏れ出た響きは、乾き切っていて声にならなかった。彼女の視線に萎縮したのかもしれない。
 サンは黙って小川から上がると、犬のようにかぶりを振って髪の水気を飛ばした。それから岩場に置いてあった銀色の衣で無造作に身を包み、すとんと腰を下ろす。アシタカに背を向けたまま、片手でぽんぽんと自分の隣を叩く仕草をした。
 アシタカは微笑した。そして促されるままに、膝を抱えて夕焼けを見上げる彼女の背に近付いていき、その隣に腰を下ろした。横目で一瞥すると、視線が合うのがいやなのか、彼の横顔を見ていたサンはふいと視線を逸らした。むつけているかのように、頬が膨らんでいた。
 ここでアシタカが、折れた。
「──すまなかった、サン」
 サンに向かって小さく頭を下げながら、誠心誠意、心を込めて詫びた。
 まだ振り向いてはやらずに、サンは訊いた。
「それは、覗き見してたことを詫びているのか?」
「それもあるが、そのことだけではないよ」
 アシタカは苦笑した。サンの肩にそっと手を乗せ、首を傾けて顔を覗き込んだ。
「先日はあのように声を荒らげて、サンを驚かせてしまった。感情の高ぶりを抑えられなかった愚かな私を、どうか許してほしい。……本当にすまなかった」
 律儀に謝ってくる彼の姿に、流石にばつが悪くなったのか。サンは視線を宙に泳がせる。
「あれは別に、アシタカだけが悪いわけじゃない。私だって、お前の気持ちを考えもせずに、言いたい放題で……」
 自分の非を認めることに不馴れな彼女は、しまいには口篭ってしまい、気分を害したように唇を尖らせた。アシタカに怒っているのではなく、自分に戸惑っているのだった。
 そんなサンを、アシタカは慈愛のこもった眼差しで見ていた。シシ神が向けてきたものと同質の眼差しだ。シシ神の眼差しが心落ち着くものである一方、アシタカのそれはサンの心を騒がせた。
 触れあいそうなほど、瞳と瞳の距離が近付いた。
 長い睫毛に縁取られたアシタカの瞳に、一筋、消えかけた太陽の光が過ぎった。
「……では、これで仲直りということで、いいだろうか?」
 アシタカが嬉しそうに目を細める。
 勝手にしろ、とサンは微かに頬を染めてそっぽを向いた。



【続】

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