4: Warmth


 廊下の長窓の掃除をしていると、ぽつぽつと雨が降ってきた。お使いで町に出掛けていったメイド仲間のことを心配して、霧がかった丘の彼方を見晴かしていると、あっという間に降り始めの小雨が本降りになった。
 桜は握り締めていた雑巾を窓枠に置いて、磨きたての透き通った窓ガラスに手を添える。横槍に打ちつける雨粒のつめたさが、ガラス越しに感じられるような気がした。
 鯖人が屋敷に戻ってきてから半月の時が過ぎようとしている。晩餐を共にした夜の、桜の給金未払いについての訴えを聞き届けてくれたのだろうか。どうやら彼は彼なりに、今までの浪費癖を改め、小さなことから地道に節約を心がけるようになったらしかった。
 つい今朝がたも、朝食をとるために降りてきた鯖人はこんな宣言をして、メイド達を驚かせていた。
「これから朝餐室は使わないようにしようか。ごはんを食べる場所はひとつあればいい。あと、他の部屋も限られたところだけ使うようにしよう。応接間なんかはぼくも普段は出入りしないようにするよ。きみたちの掃除の手間も省けるしね」
 こんな調子でひとつ、またひとつと金と労力を要する贅沢が排除されていった。おかげでこの屋敷では人手が前ほど要らなくなり、辞めていくメイドがあとを絶たなかった。仕事先は選り好みさえしなければ他にいくらでもある。気まぐれな主人のもとであくせくと働き、次にいつもらえるかも分からないなけなしの給金を待つよりは、ここを出て確かな収入を見込める奉公先を見つけたほうが得策だと皆気付いたのだろう。それが自然のなりゆきだ、と桜も思った。
「──ああ、残念だね」
 すぐ後ろで声がした。窓ガラスに添えてある桜の手に、大きな手が重なった。この人は、こうして気配をすっかり消して現れることにかけては、天才的ともいえた。桜はいつも予期せぬ鯖人の出現に驚かされてばかりだ。
「天気が良ければ、桜ちゃんを町に連れて行こうと思ったのに」
「旦那様、どのみち私は仕事があるので、お出かけなんてできませんでした。きっと」
 仕事は嫌いだ、と鯖人はあくび混じりにぼやく。窓に映る長身の彼を、桜はガラス越しに見つめた。部屋着の長いガウンを着て、すっかりくつろいだ様子だ。つい今しがたまで昼寝でもしていたのか、赤い髪にはところどころ寝癖がついている。
「桜ちゃんは、どんな仕事をしているんだい?」
「ご覧のとおり、今は窓を掃除してます」
「窓?窓なら、もうきれいになってるじゃないか」
 ぴく、と桜の肩が揺れた。重なっていた鯖人の手が、彼女の手を握り締めたのだ。冷たい窓ガラスとは違って、血の通った温かい手。彼女の手をすっぽりと包み込んでしまうほど大きい。
 こんなふうに誰かの体温を肌に感じたことが、今まであっただろうか。
 ──ないからこそ、こんなにも温かく思えるのかもしれなかった。
「手がこんなに冷たくなってる。可哀想に……。水仕事のせいで、きれいな手を台無しにしてしまうね」
 眉を八の字に下げて、鯖人はこまったように笑った。他人のことにはまるで興味がないと言っていた彼だが、その言葉とは裏腹に、案外面倒見がいい雇い主なのだということを桜は知っている。
「仕事に犠牲はつきものです。つらくなんてありませんから、心配しないでください」
「心配するさ。ぼくの大切な恩人なんだもの。桜ちゃんが怪我をしたぼくを心配してくれたみたいに、ぼくもきみのことが心配なんだよ」
 お互い様だね、と鯖人はにっこり笑う。ガラスに映るその笑顔を見ていると、桜は心がほんのり温まるような気がした。
「大丈夫。今は冷たくなんてないです、ちっとも」
「本当に?」
「はい。むしろ、温かいですよ」
 ──あなたのおかげで。
 直接見つめ合うことはしなかった。ガラス越しに視線が合うだけで、心を通わせるには十分だった。身分と年齢を越えた奇妙な絆は、日増しによりいっそう強く、彼と彼女を結びつけているかのようだった。どちらともとうにそのことに気付いていた。だからこうして、当たり前のようにそばにいた。けれどその絆にあえて名前をつけることは、二人ともしなかった。できることなら、いつまでも今のままでいたいと思った。
 晩餐の時間になって、ようやく雨がやんだ。お使いに出かけていったメイド仲間は、あの霧がかった丘の向こうから戻ってくることはなかった。他のメイド仲間が、あの子は町で新しい仕事先を見つけたらしい、とどこか羨ましそうに教えてくれた。
 またひとり、屋敷から人がいなくなった。
 桜は我知らず、ぬくもりの残る手を握り締めていた。




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