3: Bisque Doll


 晩餐室のシャンデリアが煌々ときらめいている。いつぶりかにこの屋敷の主人が帰宅したとあって、メイドたちは、今夜ばかりはいままで節約してきたろうそくを惜しげもなく使うつもりのようだ。
 長テーブルには薔薇の花が飾られ、磨くだけでメイドが一苦労の高価な銀食器には、香りのいいごちそうが載せられている。おそらくは鯖人がスープを飲むのに使っているスプーンのたったひとつで、メイド一人分の給金数ヶ月分をまかなえるほどの贅沢品だろう。料理にしても、ワインにしても、どれも舌の肥えそうな高級なものばかりだ。浪費家の悪名高き主人の嗜好がありありとうかがえた。
 ピオニーピンクのドレスに身を包んだ桜が、大きな目をさらに丸めて物珍しそうに頭上をあおいでいる。この晩餐室のシャンデリアがこれほど明るいことを、今まで知らずにいたのだ。正面でワイングラスを傾けながら、鯖人は興味深く彼女を眺めている。大きく開いたドレスの胸元に、小ぶりのパールのネックレス。ゆるくウェーブのかかった髪はおろしていて、両耳の上にやわらかなミントグリーンのリボンをとめている。道端で見かけた時から、肥えきった彼の審美眼にさえ、ボンネットに隠れがちなその顔立ちがなかなか可愛らしいものとして映っていたのだが、こうしてシャンデリアの明かりの下で改めて目の当たりにしてみると、つい魅入ってしまうほどのその可憐さは、まるで──
「ビスクドール」
「え?」
「きみのことだ。ご令嬢方が小さいころに一度はねだるっていう、おもちゃの人形。きみは、あれに似ているよ」
「人形?私が、ですか」
 桜はきょとんと相手を見つめ返した。容姿を褒められていることに気付いていないのだろう、おかしくなった鯖人は、クロスで口の端を拭きながらくすくすと笑う。
「ビスクドールを見たことがないんだね。よし、じゃあ今度、ぼくが見繕ってプレゼントしてあげよう」
「あ、いえ、どうかお気遣いなさらずに」
 なぜ?と問う彼に、桜は背筋を正して毅然と伝えた。人形をもらう以前に、まだここで働いた分のお給金をいただいていません、と。
「私だけじゃありません。他のメイド仲間も、しばらくお給金をいただいていないので、困っているそうです。家族のなかに病気の人がいるのに、故郷に帰ろうにも路銀がなくて、可哀想な思いをしているひともいます」
 思いもよらぬ指摘に、鯖人は口をつぐむ。彼が屋敷のことを顧みないのは、昨日今日に始まったことではなく、これまであえてそれを諌めようとするものはいなかった。なのにこの少女は、ほぼ初対面であり、そのうえ自分の主人である鯖人に対して、臆することもなく、こうして堂々とした態度で意見を述べている。
「旦那様」
 と、桜は決して責め立てる調子ではなく、少女らしからぬごく落ち着いた声で続けた。
「私のことを、恩人だとおっしゃいましたね。私に恩を返したい、とも」
「──ああ。確かに、そう言ったね」
「では、私への恩返しのつもりで、していただきたいことがあります。私達メイドに、せめてひと月分のお給金くらいは、払っていただけないでしょうか。──なんでしたら、私の分は当面要りません。私には仕送りをしたり、会いに行きたいと思う家族はいませんから。代わりに、さっきお話した彼女に、家に帰るのにじゅうぶんな路銀を渡してあげてほしいんです」
 まっすぐな瞳だった。そのまなざしは見えない矢となって、彼の心を真正面から射抜いた。
「私の友達なんです。大切な、親友です。病気なのは、たったひとりのお兄さんなんだと、言っていました」
 鯖人は祈るように長い指を組み、その上に顎をのせて、桜をじっと観察した。彼女も怯まずに、視線を返してよこした。
 おそらくは娘ほども年の離れた少女だろう。控えめな見た目とは裏腹に、案外肝が据わっているらしい。あてがはずれたな、と鯖人は思った。桜のことは、このテーブルに飾ってある薔薇や、令嬢が枕元に置きっぱなしにするビスクドールのように、きれいに着飾らせて、好きなときにそばに置いて好きなだけ眺めて、気ままに愛でることができればいいような、そういうたぐいの存在だと決めつけていたからだ。けれど蓋を開けてみれば、決してそんなことはなかった。
「まいったな。ただの可愛いお人形さんかと思えば、こうしてきちんと言葉を話せるなんて」
「私は人形なんかじゃありません。自由な意思をもった、ひとりの人間です」
「自由な意思をもった、か。じゃあ、この屋敷にほとほと嫌気がさしたら、ぼくにすっかり愛想を尽かしたら、きみはきっとその足で、あっさりここから出ていってしまうんだろうね」
 はい、と躊躇のそぶりさえ見せずに桜は答えた。「そのときには、もっといい勤め先を探します」身も蓋もない少女につい、鯖人は吹き出してしまう。ワインを口に含んでいなくてよかった。もしそうだったら、むせていたところだ。
「きみはいいところをついてるよ。ぼくには、自他ともに認める欠点があってね。よく、他人のことを自分のことのように気遣え、とか言うじゃないか。──できないんだよ。ぼくはね、昔から自分のことしか考えられないんだ。良心ってものがないんだよ。だからきみの不憫なお友達の話を聞いても、他人事だとさえ、思ってしまっているんだ」
 テーブルに置いてある燭台の火が揺れた。窓が開いていて、夜風が入ってきたせいだろう。すその長いレースのカーテンを透かして、白い月が見えた。鯖人は目の前のメイドの少女に視線を戻した。まだ手の付けられていない皿の上のテリーヌを見おろして、唇を引き結んでいる。
「ぼくのこと、心の冷たい主人だと思うだろう?」
「──少しだけ」
「それが当たり前さ。ぼく自身、そう思うんだから」
 鯖人は立ち上がり、テーブルを回って桜に近づいていく。すぐ真横に立つと、イブニングコートの内側に手を差し入れて、金貨を数枚ほど、桜の手に握らせた。
「これだけあれば、お友達の路銀に事足りるかな?」
「十分すぎるくらいです。ありがとうございます、旦那様」
「感謝することはないよ。何もきみの可哀想なお友達のためを思ってあげるんじゃない。ぼくがきみに恩返しをしたいから、こうして渡すんだ」
 金貨を受け取った桜の手を、彼は両手でそっとはさんだ。
「桜ちゃん。きみは、ぼくにはないものを持っているね」
「誰にでも、美点と欠点があると思います。旦那様にも、きっと、」
 桜は言葉を切った。窓の向こうから、風に乗ってヴァイオリンの音色が聞こえてきたからだ。バルコニーに演奏者がひそんでいたらしい。それに呼応するように、窓辺に寄せてあるピアノからも、音が流れ出した。それはそこはかとなく、春を思わせる曲だった。
「お嬢さん、ぼくとメヌエットを踊っていただけますか?」
 唐突な申し出だった。桜は驚いて首を横に振る。
「私、ダンスなんてしたことありません」
「大丈夫。ぼくが教えてあげる。足を踏んづけられたって、怒ったりしないよ」
 鯖人はしぶる桜をどうにか言いくるめて、立ち上がらせた。さりげなく彼女の腰に手を添えて、広間へエスコートする。
「きみにとって、はじめてのダンス相手になれて光栄だよ」
 心からの気持ちだった。けれど、本当に足を踏んでしまうかも、と足元ばかり気にしている桜には、残念ながら聞こえていないようだった。
 


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