2: Peony Dress


 散歩の途中、怪我をしていた旦那様と道端で偶然鉢合わせた時、その紳士がよもや私の雇用主だったとは思いもよらなかった。
 通りすがりの私に、道端で動けずにいた彼が哀れっぽい目で救いを求めてきた。きちんとした身なりをしているのに、砂埃にまみれていて、まるで没落貴族みたいだった。
「馬車をひろう金貨がないんだ」
 と、彼は捨てられた子犬のような目をして嘆いた。「それに、ほら。これじゃあ、馬にも乗れそうにないだろう?」
 ズボンの裾をたくし上げて見せられた足の怪我は、とても痛々しかった。血こそ出てなかったものの、何かに強くぶつかったらしく、しっかりと青痣になっていた。彼は痛みに呻いていたけれど、私にはどうにもできなかった。女中長になら、怪我の手当てをお願いできるかもしれないと思い、私はその見知らぬ紳士を屋敷まで連れて帰ることにした。
 自分の屋敷の方角に向かっていたのに、あの人は身分を明かそうとしなかった。私に寄りかかって、足を引きずり歩きながら、どうでもいい世間話ばかりして時間をつぶそうとした。あの時に打ち明けてくれても良かったのに。きっと、後で私を驚かせたかったに違いない。
 その策略にまんまとはまってしまったことが、私は少し悔しかった。だから、晩餐室でディナーをとっている旦那様が、私を呼んでいる、とメイド仲間がことづてにきた時、私は素直に従いたくないと思った。妙な意地を張りたくなった。
「すみません。これから廊下の掃除をするので、すぐには行けないんです」
「そう?じゃあ、鯖人さまにお伝えしておくわ」
「よろしくお願いします」
 ほんの少しすっきりした。ささやかな反抗心。私はちょっぴり自分が誇らしくさえ思えた。バケツとモップを手に廊下に出ようとすると、いれ違いに入ってきた誰かとぶつかった。かすかに、煙草の匂いがした。すらりと背の高い紳士。たった今、会いたくないと思った人が、そこにいた。
「やあ、こんばんは、親切なお嬢さん」
 旦那様は杖を持っていない方の手を、気軽に私の肩に置いた。女中長に手当をしてもらった足は、絶対安静のはずなのに、動き回っていていいんだろうか。ひょっとするとこの人は、大人しくしていられないたちなのかもしれない。
「鯖人さま、こちらに何か御用でしょうか?」
 伝言を頼んだ先輩メイドがたずねると、旦那様は満面の笑みで頷いた。
「うん。悪いけど、今からこの子を借りてもいいかい?」
「は?」
「この子はね、ぼくの大切な恩人なんだ。助けてもらったんだよ。だから今夜、お礼がしたい」
 先輩の答えを待たずに、旦那様は私の手からバケツとモップをとりあげて、先輩の手に押し付けてしまった。先輩は目をパチパチと瞬かせていて、多分私も同じような顔をしていた。
「行こう、桜ちゃん」
 どうしたらいいのか分からなくて、立ち尽くしていると、鯖人さんに手を引かれた。私は彼の大きな手と、スカーレットの後ろ髪を交互に見つめていた。これから私が掃除するはずだった、掃除をする手が足りなくて、すこし埃っぽいビロードの絨毯の廊下を、何度か曲がる。連れて行かれたのは、たくさんある空き部屋のうちのひとつだった。それは前の持ち主のお嬢さんが使っていた部屋らしく、私は入ったことがなかった。
 中は燭台の明かりがついていて、ほんのりと明るかった。先客がいた。女中長がクローゼットの扉を開けて、中にかけてあるドレスを検分していた。旦那様と私が入っていくと、美人さんはそのうちのふたつのドレスを選んで、私のところに持ってきた。ひとつは淡いカモミールグリーン。もうひとつはピオニーピンク。両方とも、私が今までお目にかかったことのない、見るからに高価そうなドレスだった。
 鯖人さんが、チッチッと指を振る。
「迷うまでもないね、この子には断然ピンクのほうが似合う。ほら、見てごらん?このドレス、この子のほっぺの色と同じだから」
 彼は私の顔を覗き込んで、頬を指先でツンとつついて、へへっと楽しそうに笑った。何がそんなに楽しんだろう?私は意味もなく緊張して、唇を真一文字に引きむすんだ。鯖人さんはピオニーのドレスを美人さんから受け取って、私の地味なメイド服の上に合わせた。うんうん、と満足気な顔でうなずく旦那様。私は何がなんだか分からなくて、至近距離のルビーの目が目にチカチカと眩しくて、助けを求めるように美人さんを見た。美人さんは、選ばれなかったほうのドレスをクローゼットに戻しながら、肩を竦めた。
「三十分で支度をすませますわ。鯖人さま、晩餐室にてお待ちくださいな」
「おやおや。女中長、主人のぼくをこの部屋から追い出そうっていうのかい?」
「──淑女の着替えを見ようだなんて、およそ紳士のなさることではありませんわ」
 あきれ返った様子の女中長。それもそうだ、と旦那様は存外素直に頷いて、不自由な足をひょこひょこいわせながら扉に向かう。ドアノブに手をかけた彼は、一度振り返った。
「きっかり三十分だ。いいね?」
「ええ、承知いたしましたとも」
 そしてまた、振り返る。
「桜ちゃん、晩餐室で待ってるよ。うんとおめかししておいで」
 お茶目なウインクを投げてよこす、鯖人さん。ごく自然にひとの懐に入ってきてしまう、子犬みたいに気さくな彼のことがどうも憎めなくて。ついさっきまで意地を張っていたことも忘れて、私はほんの少し笑ってみせた。




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