1: "Hello, Little Miss"


 夜になったらまた雨が降るかもしれない。霧がかった丘を見晴かしながら、彼女は思った。
「こんなもんでいいかね?近頃雨続きなせいで、どうもみんな調子が悪くてねえ」
「これだけあれば十分ですわ。ありがとう」
 晩餐室に飾る薔薇を庭師から受け取り、背後を振り返る。屋敷の明かりがぽつぽつと灯り始めていた。節約のため、なるべく蝋燭を無駄にしないように、明かりは日没をぎりぎりまで待ってからつけるように、と女中長の彼女は口を酸っぱくしてメイド達に言いつけているのだが、今日はしかたがないだろう。なんせ、例によってまたどこかで放蕩していたこの屋敷の主人が、数ヶ月ぶりに帰ってくるというのだから。
「美人ちゃん、あんたも苦労するね。せっかくあんたが倹約を心がけてるってのに、旦那様ときたら、有り金はぜーんぶ湯水のように使っちまうんだもの。メイド達のお給金は出し惜しみするくせに、賭博やら女遊びに使う金には糸目をつけないんだからね。おかげであんなに賑やかだったこの屋敷も、どんどん人が減っていく一方だ。すっかりしみったれちまったよ」
 年老いた庭師の嘆きに、女中長は苦笑する。そういう彼女も、ここ数ヶ月、雇用主から給金を受け取っていない。けれどほかのメイド達のように、この枯れて廃れつつある貧乏屋敷を、金にだらしのない主人を、あっさり見捨てる気にはなれなかった。
「──旦那様は、本当はきっと寂しいお方なのですわ」
 彼女の独り言のようなつぶやきは、庭師には聞こえていなかったらしい。彼は目を細めて、彼らがいる茂みから少し離れたところにある、薔薇のアーチを見ていた。
「女中長、あれは誰だろうね?こっちに向かってくるようだよ」
 言われて彼女も庭師の視線を追う。霧がかったアーチのなかから、ゆっくりと、なにかが姿を現し始めている。よく目を凝らしてみると、それはふたつの寄り添う人影だった。
 ひとりは遠くからでもひと目で誰か分かった。銀色の長い外套に身を包んだ、長身の紳士。それこそ、今しがた彼がくぐり抜けてきたアーチに絡みつく薔薇のように、髪が赤い。彼は脚に怪我でも負っているらしく、もうひとりの──こちらも彼女には見覚えがあった──ボンネットを被った小柄な少女に、どうにか支えてもらいながら、あぶなっかしい足取りで歩いてくる。
「鯖人さま!」
 彼女の声に気付いた紳士が歩みをとめた。隣の少女が「えっ?」と素っ頓狂な声をあげて彼を見上げた。この屋敷の主人は、いつもの陽気な笑顔で、まるで気の置けない友に接するように、女中長に向けて「やあ」と片手を挙げた。
「出迎えに感謝するよ、美人くん。ご覧のとおり、今、帰ったよ」
「鯖人さま──。いったい、その脚はどうなさったのです?」
「きみの質問に答えたいのは山々なんだが、まずはこの親切なお嬢さんに、説明をしてあげないと」
 彼女の雇用主は、にこにこと上機嫌に笑いながら、隣の少女の華奢な肩を抱き寄せた。至近距離で、少女がまじまじと彼の顔を見上げた。その距離の近さに、ほんの少し嫉妬を覚えてしまう美人だが、平静を装って少女へと視線をうつす。
 ひかえめで目立たない少女。長い黒ケープの下は、白エプロンに、グレーのメイド服。彼女は新入りメイドの桜だった。少し前に散歩に出ていったきり、なかなか戻らないので、ついさっき、若いメイド達が心配して「捜しに行こうか?どうする?」と話していたのを聞いたばかりだ。
「あなたが、鯖人さま?この屋敷の、旦那様ですか?」
「そうだよ?驚かせてごめんね、お嬢さん」
 鯖人はクスクスとおもしろそうに笑いながら、桜の顎でしっかりと結ばれた帽子のリボンを解いてしまう。驚いて身を引こうとする桜だが、肩をがっちりと抱かれているので、離れようにも離れられないらしい。
「失礼。ボンネットが邪魔で、さっきから顔がよく見えなくてね。──ああ、ほら、やっぱり可愛いお嬢さんだった!」
 ボンネットが草の上に落ちた。雇用主からまるで子供のように頭を撫でられたことが、意外だったのか、桜は唖然と目を丸めている。
「美人くん。このお嬢さんはね、無銭乗車がばれて馬車からつまみ出された挙句、後ろから来た馬車に轢かれ、怪我をして大ピンチだったぼくを、見捨てずに助けてくれたんだよ」
 嬉々として語る鯖人に、庭師はあきれ返ってものも言えないようだった。無論そんなことはお構いなしのマイペース人間な彼は、人懐っこそうな顔をして桜に向き直る。
「親切な恩人に、うんとお礼をしないとね。──さて、お嬢さん、きみの名前はなに?」




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