The woman


「……だからおかあさまには、とうとう言い出せなかった。それとなく、話題を持ち出しかけたんだけどね。ついでに金をたかろうとしたのが悪かったかな、またこっぴどく叱られたよ。火に油を注ぎかねなかったから、すぐ逃げてきた。またの機会に打ち明けるしかないな」
 長々とした身の上話を締めくくるが、相手からの反応はない。けれど、聞いてくれていることはわかっている。こうして眺めていられるだけで、心は満ち足りていて、対話がかなわなくても、じゅうぶん幸福だった。はるかな高みに浮かぶその大輪を、鯖人は憧憬のまなざしで振り仰ぐ。
 夢まぼろしのような霊界と、生ある者の息づく現世。決してまじわることはないものの、隣り合わせに存在する二つの世界を隔てる、ここは「境界」だ。過去も未来も知り尽くした「輪廻の輪」は、分けへだてなくあらゆる命を乗せて、今日も永遠の時をきざんでいる。
 それを、霊界の支配者であり、すべての魂の母親なのだというひともいる。輪廻の輪がなければ、生死の営みが滞り、世界の均衡がくずれてしまうからだ。死神のなかには、この輪の研究に、数百年の生涯をまるまる費やすひともいるという。それでも輪廻の輪のメカニズムは、ほとんど謎のベールに包まれたままだ。その神秘に魅入られた者は、死神界の長い歴史において、決して少なくはない。死神たちにとっては、つねに畏怖と尊敬と関心の対象だった。
 いちおう死神のはしくれではある鯖人だが、すこし前までは、あまり深くその「輪」の意義について考えたことはなかった。もともと難しいことは好まないたちであり、本当のところ、輪廻の輪というものに興味さえ持ち合わせていなかった。当然のようにそこにあるものに、あえて疑問や感慨を抱く死神達の気が知れなかった。学校にどうして黒板があるのだろう、公園になぜ遊具があるのだろう、と考えるようなものではないか。
 けれど最近は、生まれてこのかた顧みることのなかったはずのその「輪」に、すっかり心を奪われてしまっている。
 彼女は──そう、輪廻の輪は女性なのだ──口を持たないときにはこうして長い沈黙をつらぬくものの、時折気まぐれにあの輪を離れて、鯖人のもとに降り立ってくれる。
 彼は、恋をしている。
 輪廻の輪そのものに。めったにお目にかかることのできない、その美しい仮姿に。
 彼にとってのあの輪は、愛するひとの宿る依代だ。
「おかしなことを言ってもいいかな?」
 三途の川の対岸から吹く風を、胸いっぱいに吸い込む。長い襟巻が、赤い髪が、うしろになびいた。
「今日も、きみはきれいだよ」
 愛するひとがまぶしくて、彼は目を細めた。「心が洗われるみたいだ」
 傍から誰かが見ていたならば、この青年は気が触れたのだろうか、とも思われかねないだろう。物言わぬ輪廻の輪に向けて、愛をささやく彼の姿は、異様だった。恋は盲目とはよく言ったもので、本人はそのことにまるで気付いていない。
 彼にとって、境界は、二人のためだけにある世界だった。
 そこには、他の誰も存在しない。誰に見とがめられることもない。
「きみがそうやって、輪になって回ってる時は、おなかの赤ちゃんはどうしてるんだろう?きみと一緒に、回っているのかな?」
 微笑ましい想像に、鯖人の頬は自然と緩む。彼女の血を分けた子に会える日が、今から待ち遠しかった。近頃はいつ何をしていても、そのことにばかりうつつを抜かしている。ただでさえ、苦手で怠慢がちだった死神稼業には、このところますます身が入らなくなっていた。
「できれば、きみにそっくりの女の子を産んでほしいな。もちろん、男の子でもいいけど。きみの子なら、どっちでも可愛いに決まってるからね。それから、名前はね、実はもう決めてあるんだ」
 いたずらっぽい目。まだ、無邪気な少年の面影が残っているかのような。
「聞きたければ、ここまで降りてきて?きみの耳に、じかに伝えたいから」



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(おまけ)

「りんね」
 意味もなく、名を呼ばれた。少年は眉間に皺を寄せるが、父親は息子の不快感が気にならないらしい。ひとり満足そうに頷いている。
「いや、いい名前をつけたなと思って」
「自画自賛か?」
「まあな、ははは」
 りんねは鬱陶しそうに顔を背けながら、鞄を背負いなおす。十四才、すこし扱いづらくなってくる年頃だ。
「用がないなら呼ぶな。あと、正月にもらったお年玉なら、探しても無駄だぞ」
「世知辛いなあ」
「中学生の息子にたかるな、ダニおやじ」
 輪廻の輪に乗って人生やり直してこい。冷ややかな息子の捨て台詞も、鯖人は陽気に笑いとばした。
 あの輪に乗れるなら、むしろ本望なんだけどなあ。



2015.06.013 Twitter log
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