妻守唄


「──人臭くてかなわぬわ」
 廊下で擦れ違いざま投げかけられた揶揄に、りんは驚いて振り返った。あえてりんに聞こえるように言ったのだろう、来客である妖犬の少年も彼女を振り向いて、じっとりと侮蔑の眼差しを送ってくる。
「あの御方の屋敷を、かように下賎の輩が我が物顔でのさばり歩くとは。嘆かわしい、我が一族もまこと落魄れたものよ」
 りんよりも三、四つほど年下のように見える少年。金の双眸を剣呑に細め、白地に風雅な雪輪文様のあしらわれた袖で鼻を覆う。絵姿のように美しい少年だが、どうも気位が高くとっつきにくそうだ。困ったりんは立ち往生になる。
「ごめんなさい。私は人間だから、匂いはどうにもならないの」
「生意気な女。私に意見するのか」
「そういうわけじゃ……。匂いのことは努力はしますから。あっそうだ、お香を焚いてみようかな?」
 りんは妙案を思いついた、とでも言いたげに得意げに手を叩く。陰険な顔をしていた少年が、呆れ返ってつい溜息をこぼした。
「女。香如きで私の鼻が誤魔化せると思うのか?」
「だめなの?」
「ふん、小細工を弄したところで無駄なこと。お前のその下劣な血肉は──」
 少年がふいに口を閉ざした。りんの肩にそっと手が置かれ、振り返ってみるとこの屋敷の主である殺生丸が立っている。りんは嬉しそうに「殺生丸様」と呼びかけるが、彼はりんではなく少年をじっと見つめている。──睨みつけている、と言うべきか。
「ここで何をしている」
 殺生丸の声は静かだが、そこに確かな不快感を感じ取ったのだろう。少年の眉根が寄るが、やはりその口は達者だった。
「従兄上、私はこの者の匂いが鼻について堪りませぬ。人間の女を屋敷に置くなど酔狂の極み。どうか目をお覚ましください」
 殺生丸はふん、と鼻で笑った。無論、その目は笑っていない。これみよがしにりんを自分の方へ抱き寄せ、氷よりも冷ややかに言い放つ。
「これは私の花嫁、じきに一族の長が娶る娘だ。貴様の如き小僧がそのような口を利くことは、この殺生丸が断じて許さん」
「ですが従兄上──」
「一族の者とて容赦はせん。再び不敬を働いたとあらばその生意気な口、二度と利けぬようにしてやろう」
 殺生丸の毒の爪がバキバキと不穏な音を立てる。途端に少年は顔色を変え、素直に謝罪を口にした。分が悪いと悟ったのだろう、言うが早いか踵を返してもと来た方へ引き返していく。その後ろ姿が角を曲がって完全に見えなくなると、殺生丸は唐突にりんを抱き上げた。
「殺生丸様っ?」
 驚いたりんが素っ頓狂な声をあげるが、彼は気にせず彼女を抱いたまま一番近くにあった座敷にあがりこむ。襖を閉めることもせず、帷をめぐらせた奥の寝所で腰をおろした。
「りん」
「は、はい」
 呼んだきり、何をするわけでもなく。殺生丸はりんを横様に抱いたまま、目を閉じた。瞑想の邪魔をしないように、りんも黙っていることにする。こういうことはたった今始まったことではなく、ただじっとしていればいいことをりんは知っていた。
 開けっ放しの襖から鳥の囀りが聴こえてくる。眠気に見舞われたりんの頭が危なっかしげに揺れ始めた。殺生丸の腕に抱かれて眠るのはすこぶる心地が良い。まだ年端のゆかぬ子供の時分から、それは変わらない。
「──かばってくれて、ありがとう」
 嬉しかったよ、と。夢うつつにりんは口にする。
「己の妻さえ守れぬ男に、何が守れるというのだ」
 殺生丸がりんの耳元に囁いた。その声は子守唄のように耳に心地良く、りんはいっそう目蓋が重くなるのを感じた。
「何も案ずるな。──お前のことは、この私が守る」





2015.07.12
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