命をし全くしあらば球衣のありて後にも逢はざらめやも - 6 - | ナノ

命をし全くしあらば球衣のありて後にも逢はざらめやも 6
R-15


 あの日以来、奇妙な生活が始まった。かごめはこの屋敷に留まり続けている。ここに連れて来られてから、もう数日が経とうとしている。
 初めの二日は警戒心も露に、出された膳に箸をつけることすらしなかった。そんな彼女も次第に周囲の環境に馴れてきたのか、ここ数日は屋敷中を散策したりして時間を過ごしている。
 この屋敷には、仔犬の姿をした小姓たちが奉公しているらしい。小姓たちは鳥居模様の描かれた衣に身を包んで、長廊下を雑巾で拭いたり、蝋を灯したり、庭の草花の手入れをしたりして齷齪と働いていた。
 小姓たちの他にも、公卿風のなりをした雄犬や緞子を纏った牝犬やらが、各々の部屋で暮らしている。そういった犬たちは小姓に傅かれる立場にあるらしく、膳を運ばせたり、着替えの際に介錯を添えさせたりしている。
 そんな犬屋敷の住人は皆、小姓達も公卿風の者達も、かごめが廊下を歩けばなぜか仰々しく低頭して道を譲り、彼女に甲斐甲斐しく世話を焼くのだった。部屋まで膳を運んでくれた小姓に、
「……ねえ、どうしてあなたたちはみんな、私に親切にしてくれるの?」
 と直接かごめが訊いた時、小姓は深々と頭を下げながら、
「貴女様は、我らが主の奥方と聞き及んでおります」
 と抑揚のない声で告げ、そんなことは寝耳に水だったかごめを大いに仰天させた。

 かごめは、畳の上を滝のように流れる銀髪に指を通している。寝具に横たわった青年は面妖な般若面をつけたまま、寝息すら溢さずに眠っている。
 ひっそりとした暗い部屋の中で、小さな松明の灯りが一つ揺らめいていた。かごめの背後に控える二人の少年のうちの一人が手にしているものだった。
「じきに日が暮れます。太陽が沈めば、お目覚めになるでしょう」
 松明を手にした方の少年が静かに告げた。金髪を後ろで一つに束ね、珊瑚色の小狩衣を身に纏っている。
「……太陽があると、起きてられないの?」
「主は光がお嫌いのようです。太陽が昇る日中は、殊更身体に力が入らぬと仰ります」
「そう…なの。…ご飯はちゃんと食べてる?」
「膳をお勧めしてもあまりお召し上がりになりません。ですが元々食悦に浸る御方ではないようですので、御心配は無用かと」
 かごめの問い掛けに、滔々と答えたのはもう一人の少年だった。銀髪が肩口で切り揃えられている。着ている衣は隣の少年と対を成す瑠璃色。
「心配は無用って…心配するに決まってるじゃない」
「この御方は、黄金(こがね)と私が心を尽くしてお世話させていただいております。どちらにせよ、貴女には関係無きこと」
 冷淡に突き放す言葉が、かごめの苛立ちを煽った。かごめは震える下唇を噛む。数日間何の説明もなく犬屋敷に閉じ込められ、青年を訪れることも叶わなかった不満が、今にも爆発してしまいそうだった。
 ようやく会えたかと思えば、青年は死人のように暗い部屋で眠っている。太陽を避け、光を避け、面妖な般若面をつけて生きている。太陽の下を駆け回っていた五百年前のあの少年とは別人のような姿。一体この五百年の間に、彼に何があったというのだろう。
「関係無い、ですって?……よくそんなことが言えるわね。私達のことなんて何も知らないくせに」
 拳を握り締めながら、かごめは低く呟いた。金色の髪をした、黄金と呼ばれた方の少年が眉を顰めて隣を睨む。
「白銀(しろがね)、口を慎め。犬神殿の奥方だぞ」
「奥方?そのような虚言、みだりに言い触らすものではないと私は思うが」
 白銀は冷ややかに言い捨てた。
「犬神殿はこの女人が憎らしいと常々仰っていたではないか。偕老同穴の契りを交わしたとも思えない。それなのに何故、お前は小間使い達にこの女人を奥方などと呼ばせ、この屋敷に留まらせる?」
 かごめはその遣り取りの中で、何よりも「犬神殿」という呼称に気を引かれていた。小言を言い合っている少年達を振り返り、怪訝な表情で疑問を投げ掛けた。
「ねえ、その『犬神殿』って……犬夜叉のことなの?」
 二人の少年達は、口論をやめてかごめを見遣った。虚を衝かれた表情だった。白銀が言葉を噛み締めるように、静かに呟く。
「──犬夜叉。そう言えば、この方にはそのような御名もあったか」
「今となっては…その名を知る者すら恐らくいないからな。私とお前と、かごめ様の他には」
 ──当人ですら憶えていらっしゃらないから。そう締め括ったのは黄金だった。その先の説明を期待したかごめだったが、二人の少年はそれきり口を閉ざして、それぞれの思考に耽ってしまった。犬夜叉に関する謎が更に深まるばかりで、かごめは困惑する。
「犬神ってどういうことなの?犬夜叉は半妖よ。神様なんかじゃないわ」
 黄金が手にした松明の炎が踊る。障子にうつる少年達の火影が揺れている。かごめは突然息を呑んだ。影が少しずつ縮んでいき、人型から犬のような形に変わっていく。しかし目の前の少年達に変化はない。
「闖入者か?」
 障子を振り返りながら、うんざりした口調で黄金が言った。いや、と白銀が首を横に振る。
「恐らく新しい狗魂だろう。迎え入れてやらなければならない」
「仕方がないな」
 言うなり二人は立ち上がった。呆気にとられていたかごめは、白銀が障子の向こうに消えてしまってから、慌てて黄金の背へ呼び掛けた。
「あの、待ってください!」
 黄金は障子に手をかけたまま振り返り、面に微笑を湛えた。
「仕事を終えたらまた戻ります。かごめ様はこちらでお待ちください」
「え、でも私……あっ、待ってよ!」
 かごめが躊躇している間に障子が閉められ、黄金の退出と同時に部屋からは一切の明かりが消えた。真っ暗の部屋に取り残されて、かごめは寒気がした。この犬屋敷はどこか冷ややかで不気味だ。気丈なかごめもさすがに薄気味が悪かった。
 松明を渡していってくれたらよかったのに、と恨めしく思いながらかごめは溜息をついた。それから手探りで、犬夜叉の位置を確認した。衾からはみ出した犬夜叉の腕に手が触れると、かごめは安堵の表情を浮かべた。
「……早く起きてね、犬夜叉」
 闇の中に囁きかけた。何から話したらいいだろう、そんなことを思っているうちに目蓋が重くなり、かごめはあくびを一つした。それから畳の上に横になり、犬夜叉のすぐ隣で目を閉じた。
 眠りは数秒と置かずに訪れた。

 息苦しさを覚えてかごめの意識は浮上した。目をうっすらと開けると、眠る前と同じ闇が辺りにひろがっている。一寸先も見えない。
 身体全体が重かった。上半身を起こそうとしても、重石を乗せられたように動かない。なんだろう、と訝しみながらかごめは手探りで身体の上にのしかかっているものに触れた。絹の糸のようななめらかなものが指に絡まった。そこでかごめははっとした。
「い、犬夜叉っ!?」
 呼び掛けられて、その人物が小さく身体を震わせた。彼女の胸元から何かが離れていった。上からじっと見下ろす視線をかごめは感じる。動揺しながら手を周りに泳がせると、柔らかい感触が腕を掠めた。畳の上で寝ていたはずなのに、いつの間にか衾の中にいた。
 恐る恐る自分の身体に触れてみる。来ていた小袖は身体の下にあった。身には何も纏っていなかった。頭の中が真っ白になり、かごめは硬直した。
 沈黙を了承の意と汲み取ったのか、犬夜叉は再びかごめの胸に顔を寄せた。胸に寄ったひやりとした肌の感触に、かごめははっと我に返り、顔には瞬時にして熱が上った。
「犬夜叉っ、あんた何やって……!?」
 犬夜叉は般若面をとっているのか、柔らかな頬の感触がした。冷たい手が片方の胸を掴んだ。
「い…いい加減にしなさい!」
 かごめは羞恥のあまり激昂した。激情のままに拳を振り上げる。しかし、犬夜叉はやすやすとその手首を掴んだ。
「……私は夜目が利くから、殴ろうとしても無駄だ」
 かごめの胸元から再び顔を上げて、犬夜叉がらしからぬ冷静な口調で言った。それでもその声は、確かに記憶していた少年のものに違いなかった。だがそんな感傷に浸る余裕は今のかごめにはなかった。
「夜目が利くって、じゃあ…」
 ──全部見えるってことじゃない。かごめの顔が今度は青ざめた。
 裸を見られるのは初めてではないが、だからと言って裸体を惜しげもなく晒す気は毛頭ない。かごめは図々しく自分に抱き着いている青年の肩を押し返した。が、無論びくともしない。
 自分を憎いと言っておきながら、この始末は何なのだろう。かごめは益々訳が分からなくなった。赤子のように胸に顔を埋める犬夜叉が、まるで彼女に甘えているかのように思える。五百年前よりも大人びた青年になったはずの犬夜叉が、あの頃よりずっと脆く見えた。
「……眠い」
 犬夜叉は静かに呟いた。もうこの状況はどうにもならないな、とかごめは声色に諦めを滲ませながら、投げ遣りに言った。
「眠いって、あんた…あんなにたくさん寝てたじゃない」
「…お前が温かいから、また眠くなった」
 溜息をつきながら犬夜叉は言った。かごめは面食らって言葉を失った。
「お前は憎いが、肌は温かい。……何故だろう」
 心底疑問だ、というように犬夜叉が自問すると、かごめは仏頂面になって顔を反対側に向けた。
「あんたが憎くたってなんだって、私は生きてるんだから、肌が温かいのは当たり前じゃない」
「…そうなのか」
 虚ろな口調で犬夜叉は言った。あまりにも抜けた声に、かごめは拍子抜けした。心配になって眉を顰める。
「犬夜叉、あんた大丈夫?」
「……さっきから、私を『犬夜叉』と呼んでいるが、それが私の名か?」
 質問返しをされてかごめは一瞬言葉に詰まったが、すぐに眼差しに光を宿して頷いた。
「そうよ。誰が何と呼ぼうと、あんた自身が忘れてようと、私は覚えてる。あんたは犬夜叉だわ」
 犬夜叉は自分の名を暗誦するように何度か呟いた。初めて聞いた言葉を口にするような響きがかごめには物悲しかった。
「……かごめ」
 犬夜叉が静かに呼んだ。不意をつかれて、かごめは息を呑む。
「私の名前、思い出したの」
「いや…黄金から聞いた」
「……そう」
 犬夜叉が自分で記憶を手繰り寄せた訳ではなかったのか、とかごめは落胆を覚えた。それでも、久々の響きに心が打ち震えた。
「かごめ」
 もう一度犬夜叉が呼んだ。かごめの心がまた疼いた。
「……何故、お前を待っていたんだろう」
 静かな問いかけだった。かごめは、その頭を腕で包むように抱く。犬夜叉は再び安堵の溜息をついた。
 かごめは目を閉じる。この部屋の闇と、瞼の裏の闇、どちらがより深いだろうと思った。
 ──そして、犬夜叉の見ている闇が何よりも深いのかもしれない、という結論に至った。





To be continued...
 
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