花嫁御寮  10:グリム



「猫は末代まで祟ると言いますね。ならば僕も、ひょっとすると猫とは眷属なのかもしれません」
 まるで歌うように、気ままに繰り出された男の言葉。魂子は細目できっと彼を睨みつつ、きつく唇を噛んだ。
「猫の眷属ですって?だとしたら、とんだ性悪猫でしょうね、あなたは」
「おや。ひどい言われようだ」
 あからさまな敵意を向けられても、どこ吹く風といった様子で男は静かに笑っている。座布団に座っている彼の膝の上で、雪のように白い猫が身を丸めて眠っている。黒い手袋を嵌めた男の手が、その背を優しく撫でていた。
 青年、と呼ぶには彼はそぐわないだろう。けれど魂子同様、その容姿は並外れて若々しかった。器が変わらないのだから、中身などやがて顧みなくなる。人の寿命で数えればいくつになるのか──、ある時からそんなことは考えることさえしなくなる。それが、永きの時を生きる「死神」という存在の性だ。
「魂子さん。あなたは、昔から僕のことを嫌っていましたね」
 責めるでも、なじるでもなく。ただ報告書にある事実を述べるように、淡々と。この男の考えは相も変わらず底が知れない。
「別に嫌いじゃなかったわ。──好きになる理由がなかっただけ」
「許婚、だったのに?」
 魂子は苦虫を噛み潰したような顔をする。「あなた一体、いつの話をしてるのよ」
 いつのことでしょうね。男が小首を傾げて、胸のあたりで切り揃えた黒髪を揺らし、ひっそりと微笑んでいる。
 精巧な人形のように端整な顔だちをしている。死神というのは見映えがする者ばかりであり、例にもれず彼もまた美しかった。だが魂子の目に映る彼は、決して好ましい存在ではなかった。人のよさそうな表情を浮かべているが、彼の片目には黒い眼帯が施されており、唯一晒されている海のように青いもう片方の目は、親切とは程遠かった。地獄の底に凍りついているという魔王の瞳ように、すっかり冷めており、まるで温かみを欠いていた。
 魂子さん、と彼はまた静かな声で彼女を呼ぶ。
「僕が『グリム』と呼ばれる理由を、今ならお分かりいただけるでしょうね」
「ええ、分かるわ。──嫌というほどにね」
 グリム。それは不吉で残酷な存在をあらわす。かつて西洋では死神を"Grim Reaper"と呼んだ時代もあったそうだが、近頃は「刈り取る者」を意味するReaperや、「死」そのものをあらわすDeathのみが使われるようになった。「死神は死を呼ぶ恐ろしい存在」という誤った認識が、時を追うごとに見直されつつあるのかもしれない。
 だがそれは、善良な死神にかぎっての話。今、魂子と向き合っているこの男は、失われたはずの「グリム」の名を与えられた死神なのだ。
 あの世において、これほど冷酷な死神はいないだろう。
 この死神は、闇に魂を売ったのだというが、あながち嘘でもないのかもしれない。
 ──ある日、彼は地獄の長である閻魔大王をその手にかけ、殺害した。
 死神界に籍をおく身でありながら、管轄外である地獄に深く干渉したのだ。当然、地獄の住人達は激怒した。自分たちの長を殺めた異界の不届き者を、なんとしてでもつるし上げて見せしめとしなければ──、と誰もが息巻いた。
 だが、彼らの威勢は長くはもたなかった。閻魔に代わって地獄の実権を握ったグリムが、恐怖の粛清をおこなったのだ。
 彼は冷酷無情な独裁者であり、反発する者にはいっさい容赦がなかった。異を唱える者は悪魔であろうと鬼であろうと皆片っ端から舌を抜かれ、煮え滾る地獄の釜へ放り込まれるという熾烈な罰を受けた。その沙汰の非道ぶりに泣く子も黙る地獄の住人達は畏れおののき、しだいに口を閉ざすようになった。
 やがて閻魔の仇討ちをなそう、などと言い出す命知らずはすっかりいなくなった。
 その悪名たるや、今や死神界のみならずはるかな天界にまでも轟いているという。「死の国」に身をおく者はみな、死神も黒猫も、天使も悪魔も、悪霊や魔物や鬼でさえも、グリムという名を恐れているのだ。
「──変わってしまったのね、あなたは」
 先程の親の敵を捉えるような眼差しとは打って変わり、魂子は何か痛ましいものを見るような目つきをする。
「昔のあなたは、決してそんな人じゃなかった。人並みの良心を持った、人並みの死神だったはずよ。なのに」
 どうして。
 グリムの表情は仮面をつけているかのように、変化がない。
「僕が変わった?──それは、いったい誰のせいでしょうね」
 彼の膝の上で、眠っていた白猫が目を覚ました。あくびをすると、喉元の鈴がちりんと鳴る。しばらくグリムにおとなしく撫でられていたが、やがてそうしているのに飽きたらしく、彼の膝からぴょんと飛び降りた。瞬間、その姿は銀髪の美しい少女のそれへと化けていた。
 雪、とグリムが呼ぶ。おそらくまだ十歳ほどでしかない少女が、あどけなさの残る声で「パパ」と返した。
「サバちゃんと遊んできてもいい?」
「ああ。行っておいで」
「庭で遊んじゃだめ?」
「だめだよ。この人達はね、ここから出してはいけないんだ」
 魂子は溜息とともに目を閉じた。
 神経を研ぎ澄ますと、あたりに結界が張りめぐらされているのが感じられる。彼女をこの屋敷にがんじがらめにする、忌まわしい「死神封じ」の呪いだ。呪い手の意志の強さが、呪縛をいっそう強固なものにしている。
 ──末代まであなたを呪うと決めました。
 六年前、グリムが告げた言葉が彼女の脳裏によみがえった。


 あの日、あの教室で、二人が隣り合わせになったのは、きっとただの偶然だろう。
 人の目には見えないものが見える二人が、出会ったこと。同じ時を過ごしていくうちに、しだいに心を通わせはじめたこと──。後に起きたすべての出来事は、偶然のなせる業にほかならない。必然や運命などというだいそれたものではなく、それは単なる偶然が端を発したに過ぎないのだ。
 この六年間、桜はずっと自分にそう言い聞かせてきた。
 出会ったことを決して後悔することはしない。ただ、六年の時をかけてもまだ、ぽっかりと空いてしまった心の一部を埋め合わせることがどうしても難しかったから。どうにかしてあの過去を、塗り替えてしまいたかった。何ものにも代えがたい特別な思い出から、ありふれた高校時代の断片でしかない、平凡な記憶へと。
 ──六道りんねと過ごした、あの過去を。
 思考を切り替えるために、桜は掃除機のスイッチを切る。音でうるさかった部屋が、突然しんと静まり返った。
 子供の頃から社会人になった今まで、ずっと暮らしてきたこの家。そう遠くない未来に別れを告げなければならない。式を挙げた後、ハネムーンから帰ってきたら、早いうちに十文字家に引っ越すことになっている。差し迫ったことではないとはいえ、ぼちぼち荷造りを始めなければ。
 この部屋は桜が引っ越したあともそのまま残しておいてくれると両親は言うが、きれいにしておけば来客があった際のゲストルームとして使えるだろう。この機会にいらないものは処分してしまおうと彼女は思い立った。
 もうとっくに着なくなった服。読まなくなった本。小さい頃に集めていたカードやシール手帳やら、もろもろの使い道のないがらくた。モノへの未練をひとつひとつ断ち切り、ごみ袋に入れたり紐で括ったりしてさばいていく。その作業は、比べ物にならないほど単調ではあるものの、死神の仕事に少し似ているような気がした。
 ──ああ、まただ。
 また、考えが振り出しに戻る。
 自己嫌悪に陥った桜は、机の上のきらきらと輝く除霊砂時計をつかみ、それをごみ箱に捨ててしまった。
 考えはしなかった。ほとんど衝動的な行動だった。
 クローゼットの奥にしまっていたイルカのぬいぐるみも、いらない服と一緒にごみ袋につめこんだ。とっておくことも、もっていくことも、もうできないと思ったから。
「そろそろ、もういい加減、前を向かなくちゃ──」
 偶然は偶然。それ以上でもそれ以下でもない。砂時計とぬいぐるみをどれほど大事にしたところでりんねはもう二度と戻らない。もう会えない。だとしたらそれらのモノは、砂のない砂時計であり、詰め物のないぬいぐるみでしかないのだ。
 
 けれど、彼女はまだ知らない。
 そう遠くないうちに、その偶然はまたおとずれるということ。
 そして、二度目の偶然はもはや必然──奇跡にも等しいということを。




To be continued
 
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