最初の単語 (境界のRINNE・りんさく)



 地獄で遭った行き触れの一件を経て、二人はようやく心を通わせたものの、しばらく経った今もまだ関係に変化が生じたことは秘密にしていた。初心な二人らしく、おおっぴらに打ち明けるのが気恥ずかしいというのもあり、また、彼らを取り巻く周囲が野次馬根性で騒ぎ立てると思うと、すこし面倒でもあったからだ。
「おはよう、六道くん」
 朝、黄泉の羽織を肩にかけて登校してきたりんねに、桜はごく自然に声をかける。りんねは席についてあくびをかみ殺しながら、ああ、と頷く。ゆうべも放課後にクラブ棟でのんびりと過ごして、夕飯の時間前に帰宅した桜だったが、りんねはきっとあの後休むまもなく、遅くまで仕事であちこち飛び回っていたに違いない。
 桜をはさんだ向こう側の席から、ミホがひょっこりと顔を覗かせる。
「六道くん、今日は英単語の小テストだって。勉強してきた?」
「なに?聞いてないぞ!」
 寝耳に水、とばかりにりんねは目を丸める。眠気も吹き飛んだようだ。
 案の定だった。桜もゆうべミホやリカと連絡をとっていて思い出したので、おそらく授業を休みがちで知らないだろうりんねにも伝えようと思ったものの、連絡手段がなかったのだ。
「英語は一番苦手なんだ。まったく、よりによってこの寝不足の頭がまわらない時に──」
 ほとほとまいってしまい頭を抱えるりんね。話を聞きつけて寄ってきた翼が、腕を組んだままりんねの机に寄りかかって、ふんと小馬鹿にしたように笑う。
「お前、遅刻早退欠席の常習犯だからな。これ以上学業をおろそかにしたらまずいんじゃないか?特にここ最近のサボりようは目に余るぞ」
「分かってる。この前、呼び出しを食らって説教されたばかりだ」
 担任の放った、落第という脅し文句がいよいよ現実味を帯びてきた。彼が昼夜を問わず死神稼業に奔走しているのはのっぴきならない事情があるからなのだが、そんなことは誰に打ち明けるつもりもなければ、理解してもらいたいとも思わない。とはいっても仕事にかまけてばかりもいられないことはよく分かっている。学校に行かなければならないし、何よりも、放課後桜と過ごす時間だけは何としてでも死守したい。それは最優先事項だ。そして仕事は二の次。そうなればおのずと学業は犠牲になる。机のなかからいつぶりかに触れる英語の教科書を引っぱり出しながら、りんねは小さく溜息をついた。恋愛と、仕事と、学業と。できることならもっと要領よく立ち回ってみたいものだ。近頃どうもウエイトが「彼女」に偏ってしまいがちである。生活の中心に彼女がいると言ってもいい。桜を軸に毎日がまわっている。
 気を取りなおして教科書を開こうとしたりんねの手を、隣から伸びてきた桜の手がそっと押しとどめた。目が合った。彼女の目が笑って、お疲れさま、と言っているような気がした。手のひらに握り締めていた何かをりんねの教科書の上に落として、その手はすぐに離れていった。ここは教室の中だからと、追いかけて握り返したくなるのを、りんねはどうにかこらえた。桜がくれたのは手書きの単語カードだった。
「英語の授業は午後だから、まだ諦めるのは早いよ。一緒に頑張ろう?」
 如才ない微笑み。やりすぎでも、足りなくもなく。こうやって内と外との顔を使い分けられる、器用な彼女が羨ましくなる。すこし優しさに触れただけで、嬉しくなった彼はこんなふうに顔がほてってしまうのに。恋人に是非ともあやかりたいものだ。熱冷ましのために、りんねは英語の教科書をうちわにしてほてる顔をあおいだ。
「今日はすこし暑いな。そろそろ夏が来そうだ」
「六道くん、まだ春だよ?」
 くすくす、桜が笑う。「このまえ桜が散ったばかりだよ?」
 こういう無意識下のやりとりが、どれほど周囲を気まずくさせているのか、二人にはきっと自覚がない。ミホとリカはどうにか見えないふりを、傷心の翼は健気にも悩ましい溜息をこらえている、といった具合だ。一応周りを気にしてはいる二人だが、だからといって周りが十分に見えているわけではなかった。結局のところ、いつだって相手のことしか目に入らない。
 担任が出席簿を手に教壇につく。それぞれが席に座り、チャイムが鳴った。今日もいつも通りの一日が始まる。こうして隣に彼女がいる一日が。りんねは桜がくれた単語カードを手元でこっそりと開いてみた。すこし丸みのある彼女の字だ。最初の単語は、encourage、〜を励ます。『桜はりんねを励ます』これで覚えてみよう。俄然やる気が出てきた。大嫌いな英語さえ、彼女の手助けがあればなんとかなりそうな気がする。
 自分の名前が呼ばれていることに、四回呼ばれてようやく気付くりんねだった。




おわり

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拍手をありがとうございました!

書いてから気づいたのですが、これはりんね達が二年生に進級後の話になりますね(笑)
「行き触れ」本編がだいたい一年の冬のイメージなので。
よくよく考えてみればクラス替えもあるはずですが、結局同じメンバーになってしまいました。
みんな持ち上がりで二年四組、ということにしておきましょう!笑

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