Chances of rain


 好機逸すべからず。その教えが今日ほど骨身に沁みたためしはなかった。
 今日は朝から浮かれて落ち着きがなかった、と翼は自覚している。もともとそそっかしくて、早とちりしがちな性格であることは確かなのだが、こと「彼女」が絡んでいることとなると感情の抑制がますます難しくなる。
「六道くんね、しばらく学校休むんだって」
 というのが、登校そうそう桜によってもたらされた、朗報だ。聞いた途端に、顔がぱっと輝いたのが自分でもわかるほどに、現金にも翼は喜んでしまった。
「しばらくって、どのくらい?」
「何日かは現世に戻れないみたいだよ?若手死神の強化合宿があるんだって。新しい死神道具の研修とか、賽の河原の子供たちを助けるボランティア活動とか。色々と集中して参加しなくちゃいけないイベントがあるみたい。鳳と沫悟くんが来るから、きっと厄介なことになるって、昨日はすごく憂鬱そうだったけど──」
 りんねが死神界でどう過ごしていようと、どんな災厄を被ろうとまるで興味がないので、あとの話はなおざりにひとり夢見がちになる翼だった。
 いつも翼が桜との仲を深めようとすると、決まって計画を台無しにしてしまうりんね。あのやっかいなお邪魔虫が数日間留守にする──。その間、桜は晴れて自由の身になれる。
 彼女はいつも、放課後になるとあの廃屋寸前のクラブ棟に行き、貧乏な同級生に施しを与えてやっていた。餌付けされた捨て犬のように、りんねは桜によく懐いた。それが翼には歯がゆくてならなかった。
 長年想い続けてきた彼女が、他の男に気を取られている。そんな様子を見ていてじれったい、と思わないほうがどうかしている。だが心優しい彼女のことだ、ひもじい思いをしている貧乏人を放っておくことなどできないことも、よく分かっている。彼女とて自分の良心に従って行動しているに違いないので、あまり翼がしつこく諭すわけにもいかなかった。
 今回、ひょっとすると天は翼に味方してくれたのかもしれない。りんねが不在の今この時を差し置いて、桜の心を射止める好機が他にやってくるだろうか。いや、きっとないだろう──。冥道石に齧り付いてでも、このチャンスをものにしてみせなければ。
 七時限目終了のチャイムが鳴る。一日中、授業そっちのけでずっと見ていた背中に近づいていき、翼はすうっと息を吸い込んだ。
「真宮さん」
 鞄に教科書を入れていた桜が振り返る。「翼くん?」
 目があった、ただそれだけのことが翼には嬉しくて、心震えるような出来事だった。いつも彼女の眼差しが向けられるのは、たいていその隣の席に座っている恋敵だから。
 今日くらいは、その視線を彼が独り占めしたって、ばちは当たらないだろう。
「放課後、暇かな?」


 空は梅雨に相応しく曇っているが、翼の気分は晴れ模様だ。上機嫌に鼻歌をうたいながら下駄箱で待っていると、掃除当番を終えた桜が鞄を肩にかけて、小走りに駆け寄ってきた。
「お待たせ、翼くん。おしゃべりしてたら遅くなっちゃった」
「俺も今来たばかりだから。──じゃ、早速行こうか」
 上履きを脱ぎ、二人並んでローファーを履く。前に屈んだ時、桜のうなじのあたりからふわりと漂うシャンプーの甘い香りに、翼は一瞬くらりとめまいがしそうになった。
「お出かけしようって言ってたけど、どこに行こうか。翼くん、行きたいところは決まってる?」
 ローファーのつま先を床にトントン、と打ち付けながら桜が訊いてくる。翼ははっと我に返り、心ここにあらずだったことをごまかすように小さく咳ばらいした。
「特に決めてなかった。とりあえず、商店街のほうまで行ってみない?」
「うん、そうだね。あっちに行けば、色々立ち寄れるお店もあるし」
 肩を並べて歩き出す。桜の歩調にあわせて、ゆっくりと。校門を出て少し歩くと、桜はふと鈍色の空を見上げて、見えない雨粒を受けとめるかのように手を差し出した。
「天気予報って、あまり当たらないね。今にも降り出してきちゃいそう。困ったなあ、傘、今日は持ってこなかったのに」
「大丈夫だよ。俺、折りたたみ傘持ってるから」
 桜が感心したように彼を見遣る。
「マメなんだね、翼くん。男の子って、そういうの持ち歩くの、面倒くさがる人が多くない?」
「備えあれば憂いなし、ってやつさ。かさばるものでもないし、持ってるに越したことはないよ。それに、こうしてこれを持ってきたおかげで、真宮さんと相合傘できるかもしれないチャンスに恵まれたわけだし」
 桜がくす、と笑う。
「相合傘するには、折りたたみ傘は小さすぎない?」
「そんなことないよ。ちょっと試してみようか」
 恋のお助け役、もとい折りたたみ傘を開いてみる。黒地に白の十字架があしらわれた、いかにも彼らしいものだ。翼はそれを二人の頭上に差し翳してみた。
「ほらね?ちゃんと二人とも入るよ」
「翼くん、ちょっと肩がはみ出しちゃってない?」
「俺は平気さ。真宮さんさえ濡れなければね」
 ああ、いつまでもこうしていたいな。このまま雨が降ってくれないかな──。
 天に切実な祈りが届いたのだろうか。アスファルトにぽつり、と一点の染みができた。それはしだいに点々と増えていき、ふと気付くと傘に打ちつける雨音は絶え間ないものになっていた。
「真宮さん」
 翼はごく自然に桜の肩を自分のほうへ抱き寄せた。咄嗟に彼女が雨に濡れてはいけないと思ったからで、誓って下心のかけらもなかった。
 雨の匂いがしっとりと辺りを取り巻いている。桜に水たまりを踏ませないように気を付けて歩いていると、翼の足元が濡れて水気を帯びてくるが、気にはならなかった。
 歩き出してしばらく経ってから、翼はようやく自分が彼女の肩を馴れ馴れしく抱いていることに気付いた。
「──ごめん!」
 頬がかあっと熱くなり、あわてて桜の肩から手を離す。けれど向かいから来た車のタイヤの水はねから守るために、咄嗟にまた抱き寄せる形になってしまった。
 もう一度謝罪を口にする翼に、桜がきょとんと目を丸める。
「謝ることなんてないのに。むしろ、ありがとうって言いたいくらいだよ。──翼くんってすごく紳士だよね」
「そ、そうかな」
「優しくて、気が利いて。将来、きっといい旦那さんになれるよ」
 生きていて良かった、心の底からそう思えた。絶賛片想い中の相手から、これ以上の賛辞を望めるだろうか。つい緩んでしまう頬をそのままに、翼が続けた言葉には熱がこもった。
「誰にでも優しくできるわけじゃないさ。真宮さんだから、守りたいと思うんだよ」


 ──友達からで良ければ。
 待ちに待った再会を果たしたあの日、告白をした翼に桜はそう言った。
 友達というスタートライン。そこから今、彼はどれほど踏み出せているのだろう。
 いつまでも友達のままで甘んじている気は、翼にはさらさらなかった。六道りんねのように、ただのクラスメート、と言われ続けるつもりもない。
 これは数年越しの片想いだ。離れ離れになってからもずっと、胸のなかで何よりも大事に温めてきた。いつかあの子のことを「彼女」と呼べる日が来たらいい、と夢見てきた。彼女と手を繋ぐその時を、その目に彼だけを映してもらえる瞬間を、何よりも心待ちにしていた。
 夢にまで見た少女。──少年時代の憧憬のすべて。
 この数年間、親に連れられ各地を転々として様々な人と出会ったが、他の女子には目もくれなかった。初恋があまりにも美しく色鮮やかで、他はすべて色褪せた退屈なものとしか見なせなかったからだ。
 桜と出会ってまだ間もないあの恋敵とは、そもそも重ねてきた年数が違う。
「──翼くん、どうしたの?」
 季節のデザートメニューにあった、白桃のパフェをつつく手を止めて、桜が正面からじっと彼を見つめていた。
 夕方前のまだ人がまばらなファミレス、窓際の特等席を勝ち得た二人。全面ガラス張りの窓に寄り添うようにして、垣根に色とりどりの紫陽花が所狭しと咲きみだれている。
 黙り込んでいるあいだ、よほど真剣な顔をしていたのだろう、桜が気遣わしげな眼差しを向けてきた。
「もしかして、悩み事?私でよければ、話を聞くよ」
「いや、ちょっと考え込んでただけだから。心配しないで、真宮さん」
 きみのことを考えていたんだ。素直に打ち明けてしまっても良かったのに、恋敵のことが頭を掠めてつい口を噤んでしまう。せっかくの楽しい一時に、あえて水を差すような真似はしたくない。あの男のことを思い出させたくない。
 組みあわせた指にのせた顎を軽くしゃくって、パフェの続きを促すと、桜はちょっと首を傾げてからまた長いスプーンを手にとった。淡く色づいた桃が、彼女の小さな口のなかに消えていく。少しカットが大きかったとみえ、子供のように頬張っている姿が可愛くて、今まで思いつめていたことも忘れて翼の口元はほころんだ。
「おいしい?」
「うん。桃が甘くておいしいよ。翼くんの、まだ来ないね」
「パンケーキだから、焼くのに時間がかかるのかも。そのうちくるさ」
「翼くん、私の食べてみる?」
 え、と翼が目をみはる。彼女はそれを気にも留めずに、食べかけのパフェを彼のほうに差し出してくる。
「季節限定だもん。絶対味見してみるべきだよ」
「あ、ありがとう。……じゃあ、いただこうかな」
 ひょっとすると彼女は細かいことを気にしない性格なのかもしれない。だとしたら、変にこちらが意識していることが知られたら気まずくなってしまうだろう。翼はつとめて平静を装いつつ、グラスを自分のほうに引き寄せた。緊張をひた隠し、彼女が手にしていたスプーンの柄をもつ。ホイップクリームと桃をすくいながら、どくどくと忙しない心臓をなだめた。誰かに隠れてこっそりいけないことをしているような、妙な高揚があった。
 パフェの味は、正直よく分からなかった。食べる前から口の中がすでに甘ったるくて、今にも頬がとろけ落ちてしまいそうだったから。
「どう?──おいしい?」
 頬杖をついた桜に聞かれて、翼は頬を染めつつこくこくと頷いた。居た堪れなくなって、グラスを桜のほうへそっと押し返す。もういいの?と桜が小首を傾げる。うん、ありがとうと気まずくなった翼が微妙に視線を逸らしつつ言うと、どういたしまして、と彼女はまた彼が使ったスプーンを手に取った。翼はつい彼女の桃色に色づいた唇を凝視してしまう。
 ──ああ、どうしよう。
 真宮さんと、間接キスしてしまった。


 翼が注文したパンケーキは、その後少し待ってからやっとテーブルに運ばれてきた。持ってくるのが遅れてしまった後ろめたさのせいか、それとももともとそういう性格なのか、やけに愛想のいいウエイターが気さくに笑いながら、
「可愛い彼女さんですね」
 と翼に声をかけてきた。即座に否定されるかと思ったら、意外にも桜は笑ってごまかすにとどめてくれた。
「仲良しに見えるんだね、翼くんと私って」
 パンケーキも何気ないふりを装い、分けあった。翼くんのもおいしいね、と桜は屈託なく笑っていた。
 傍から見れば、彼らは初々しい高校生カップルのように映るのだろう。現にあちこちから、微笑ましそうに見守る眼差しが感じられた。真実ではないとはいえ、桜と恋人同士と見られることが、翼は素直に嬉しかった。
 思いのほか話が弾み、気付けば周りの席がディナータイムめがけてやって来た家族客でがやがやと賑わい始めていた。会計は翼が持つことにして、本格的に混み始める前にファミレスを出た。
 日が長い時期だけあって、まだ空は明るかった。雨が上がったおかげでむしろ学校を出た時よりもさらに時間が巻き戻ったように感じる。満ち足りた気持ちで背伸びをした翼はふと、遠くの空にうっすらとかかるそれを見つけて、あっと声をあげた。
「真宮さん、あれ見て!」
「えっ、何?」
 翼が指差した方向に桜は目を凝らすが、彼よりも背の低い彼女からは、残念ながら手前にあるビルの陰になって見えないらしい。けれど翼は、どうしてもそれを彼女に見てほしかった。
「こっちに来れば、見えるかもしれない。ついてきて!」
 翼は桜の手を取って、それが消えないうちに駆け出した。ビルとビルのあいだにある狭い路地を通り抜けると、残念なことにまたも背の高い建物が目の前に立ちはだかっていた。そうしていくつか路地を通り抜けて、今にも消えそうだったそれを懸命に追いかけているうちに、二人が辿り着いたのは──
「わあ、すごい……!」
 桜が目を輝かせる。翼も頭上を見上げて、思わず息を呑んだ。
 それは翼が見せたかった、虹ではなかった。けれど、ひょっとするとそれ以上に鮮明に桜の記憶に残るような、素晴らしいものかもしれなかった。
 傘の道。あるいは、傘の空と呼ぶべきだろうか。色とりどりの傘が、開かれた状態で向かい合う建物と建物のあいだに連なって吊るされており、翼と桜の頭上を天蓋のように覆い尽くしていた。青、赤、黄、緑、紫──。絵の具の色という色をパレットに出したかのように、それらの色には際限がない。
「翼くん、行ってみようよ!」
 今度は桜が翼の手を引く番だった。二人で圧倒されながら、その極彩色の傘の道を、傘の空を見上げながら歩いた。時おり風が吹くと、傘のひとつひとつがゆったりと揺れたり、回ったりした。それにつられて、道に落とされた色のついた影もまた、気まぐれな踊り子のようにひらひらと踊った。
 翼と桜は、二人で手を取り合ったまま、同じ影を踏む遊びをした。夢中になるあまり、ふたたび雨が降り出したことも気付かなかった。そうしてはしゃいでいるとまるで、出会った頃の幼い二人に戻ったかのようだった。ランドセルを背負っていたあの頃の。時を経てもなお、桜の屈託のない笑顔はすこしも色褪せることがない。翼は心の底から、桜とともに過ごすこの瞬間がいとおしいと思った。
 今までも、ずっと彼女のことを好きでいた。なのに、今この場所で、翼はもう一度恋に落ちてしまった。今までよりも年月を重ねた分、むしろよりいっそう深く。
「真宮さん」
 この、どこまでも続く虹色の下で。
 翼と桜、二人だけが知る景色の中で。
 呼びかければ、笑ってくれる彼女がいる。
「ずっと憶えていて。今日、俺と一緒に、こうしてここに来たことを」
 頭上に連なる傘の隙間から、しとしとと雨が降ってきた。消えたと思っていた雨の匂いが、傘の道に立ちこめ始めていた。祈るように口にした言葉は、涙声のように少しだけ揺れた。
「──忘れないで」
 たとえこの手を離したとしても。今日この日、二人だけで一緒に過ごしたことを、どうか。
 桜の笑顔には翳りがない。雨の真下にあって、日だまりのような彼女の存在がこんなにも眩しい。
「忘れないよ。いつまでも、憶えてるよ」
「本当に?」
「うん。だから翼くんも、憶えていてね?」
 内緒話をするように、人差し指を口元にあてる彼女。つられて翼も、同じ動作をした。
「今日のことは全部、翼くんと私だけの秘密だよ」
「うん。──真宮さんと俺だけの、秘密だね」

 紫陽花が枯れたら、夏がやって来る。
 二人で歩いたこの傘の道、見上げた傘の空も嘘のように消えてしまい、やがて記憶の中でしか振り返れなくなってしまうだろう。
 雨季が終わる。この極彩色の道の先、夏はもうすぐ目の前に迫っている。鈍色の雲に覆われた空が、澄んだ青空にとって代わられる季節。
 それはいつか迎えたいと願ってやまなかった、きみのいる夏。あんなに待ち遠しかったはずなのに、焦がれてやまなかったはずなのに──どうしてだろう。
 この傘の道が永遠に続けばいい、と願った。
 今はまだもう少し、あとしばらくのあいだでいい、きみとこうして雨に打たれていたい。





Twitter素敵企画「夏のつばさく祭り」に寄せて。
BGMはサスケの「彼女」を推奨。
主催者のねぎさん、ありがとうございます!


2015.07.05
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