Ignorance is bliss?


 役得か受難かと聞かれたら、これはぜったいに後者だろう。
 華奢な金の猫脚がついた、なめらかな真珠色のバスタブ。もこもこの泡に包まれたお嬢様が、その縁にちょこんと顎を乗せて、心地よさそうに目を閉じている。楽しげな鼻歌が、湯気の立ちこめるバスルームにゆったりとこだましている。おなじく湯船に浸かっている朧は、さっきからずっと、緊張のあまり息を潜めているせいで、のぼせあがってくらくらしてきた。
「昔はこうやって、よく一緒にお風呂に入ったわよね?」
 くすくす、と鳳は屈託のない顔で笑い出す。洗いたてのつやのある肌が、水滴を弾いていてみずみずしい。
 朧は何も答えない。鳳とわけ合う広くはないバスタブのなかで、きちんと正座したまま、小刻みにプルプル震えている。まともに息ができないうえに、だんだん脚が攣ってきたのだ。だが脚を崩すことはしなかった。すこしでも動けば、うっかりお嬢様に触れてしまうような気がして──。
「ちょっと、なに拗ねてんの!」
 沈黙をよしとしない鳳に、ごつん、と頭を殴られた。ただでさえ酸欠で眩暈がするのに、これはひどい仕打ちだ。無神経なお嬢様のせいで恥ずかしいやら小憎たらしいやらで、黒猫の少年は涙目になってきた。
「鳳さまのバカ!女なら、もっと慎みってもんを持てよ!」
「なによー。朧、あんたひょっとして照れてんの?」
「照れるか!」
「小さい頃は何ともなかったくせに。このマセガキ」
 今度は拳で頭のてっぺんをぐりぐり。朧は俯いて赤らむ顔を隠しつつ、理不尽な攻撃から身を守るために、どうにか鳳に背を向けた。
「こんなの、ばあやさんに見つかったらどうすんだよっ。怒られてもおれは知らねえぞ!」
「はあ?別にどうってことないでしょうよ」
 無神経で無知なお嬢様は何も分かっちゃいない。年頃のお嬢様と風呂に入ってるなんてことがばあやに知れたら、たとえ抵抗しても無理やりバスタブに引きずり込まれたんだと声高に主張したって、到底信じてもらえやしない、きっと、ぎったんぎったんにしばかれる。一日飯抜きくらいじゃぜったいに済まされない。屋敷中追いかけ回されて、挙句ハエたたきで何回頭やら尻やらを叩かれることか──。考えただけでぞっとする。
 のぼせが寒気にとって代わられたところで、もうあがってしまおうと思った矢先、鳳が何気なく朧の肩に触れてきた。
「ねえ朧、あんたおおきくなったわね」
 ぎくり。朧は大袈裟なほど身を竦める。
「な、なにが」
「あんたの肩、こんなにしっかりしてたっけ?」
 なんだ肩のことか。ひそかにほっとした。
「……あのなあ、鳳さま。おれだって、いつかは大人の黒猫になるんだぞ」 
 いつまでも、あんたの可愛いぬいぐるみのままじゃないんだぞ。
 ちらりと振り返れば、何がそんなに楽しいのやら、気まぐれなお嬢様はにこにこと上機嫌に笑っている。
「背中でも流してあげよっか?」
「鳳さま、おれが言ったこと聞いてたか?」
「聞いてたわよ。でもあんたが大人になろうが、子供のままだろうが、私には関係ないもん」
 思わぬ打撃だった。朧は鳳に背を向けたまま、歯をギリッと噛み締めた。
「──そうかよ。おれのことなんて、鳳さまはどうでもいいのかよ」
「ええ、どうでもいいわ」
 ひゅっと朧が息を呑む。突然、鳳が背中に抱き着いてきたのだ。
「おおきくなったって、何も変わらないもん。あんたのこと、大好きなんだから。朧、あんたは、いつまでも可愛い私の家来よ」
 黒猫の少年がすっかりのぼせてしまったことは、言うまでもない。




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そしてこの主従が私の大好物であることは、言うまでもない。(笑)



2015.05.07 Twitter log
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