悪戯好きの恋人


 
 夕方の始業時間まではまだ余裕があった。同室の皆がまだ寝静まっている中、例によって早起きした千尋は思いきり背伸びをした。昼と夜の逆転生活にもようやく馴れてきた頃だ。隣のリンを起こさないように手早く布団を畳み終え、髪をひとつにまとめながら部屋の外に出る。
 ガラス戸を開けると、外はすがすがしい快晴だった。ここしばらく雨が降り続いたが、ようやく雨雲も気分を変えて流れ去っていったらしい。青々と透き通る海が眼下に悠々と広がっているのを、千尋は欄干にもたれかかって眺めた。
「ハクももう起きてるかな?」
 上階の一人部屋で寝起きする恋人を思い、千尋はほほ笑む。きっととっくに目を覚まして、魔法の本でも読んでいるに違いない。まかない場で温かいお茶を汲んで、差し入れに美味しい饅頭でも持っていこう。
 昇降機を乗り継いで、静まり返った湯殿の上に架かる太鼓橋を渡り、いくつか廊下を折れ曲がるとようやく帳場役の私室にたどり着いた。帳簿などを管理してある都合上、本来はまじないによって誰にも見つけられないようになっているのだが、千尋だけは容易に通してくれる。
 天に昇る龍の姿が刻まれた扉をノックしようとすると、ひとりでにぱっと開いた。盆で両手が塞がっているだけにありがたい。千尋が中へ足を踏み入れると、背後で勝手に扉は閉まった。
「いらっしゃい、千尋。差し入れをありがとう」
 書斎でハクが出迎えてくれた。千尋が予想したとおり、魔法の本を紐解いていたらしい。机の上に古本が積まれており、何冊かはページが開かれてあった。
「ハクは相変わらず勉強熱心だね。わたし、飽きちゃうから、本なんてそんなにたくさん読めないよ」
 感心する千尋の手から盆を受け取ると、龍の青年は彼女の背に手を添えて椅子へといざなった。
「さ、ここへおすわり。私は今まである魔法を勉強していたのだけれど、面白いから千尋にも是非その成果を見てもらいたいんだ」
 そう言った瞬間、微笑むハクの姿がぱっとかき消えた。驚いた千尋は椅子から転げ落ちそうになるが、何が起きたのか分からずにいる間に、本棚の陰から消えたはずのハクがふたたび現れた。
「驚いた?」
 くす、と笑いながら身をかがめて聞いてくる彼。千尋は訳が分からずに目をきょろきょろさせている。
「どういうこと?ハ、ハクが二人?」
「私はたった一人しかいないよ。これはただのまやかし。さて、本物にたどり着けるかな?」
 言うなりまたもハクはあっけなく消えてしまった。いよいよ頭がこんがらがってきた千尋は、ふと机に広げられた本のページに目を留める。が、しかし──
「なによ、これ全部古語じゃない!」
 生粋の現代っ子にこんな文字が読めるはずがない。思わずめげそうになる千尋。だが、挿絵だけはかろうじて何か分かる。どうやら、紙でできた人形【ひとがた】のようなものの作り方が描かれているようだった。
 それには見覚えがあった。かつて傷ついた身で「沼の底」から戻ってきたハクを、この人形の群れが追いかけていたのだ。ただの紙だとばかり思っていたが、実際には魔法が込められていた。使い手である銭婆の姿に化けさえしたのだ。
 足元を見てみると、案の定、人形が二枚落ちていた。
「それはね、式神、と呼ぶんだよ」
 拾い上げて机の上に並べてみると、いつの間にか隣に立っていたハクが語りかけてきた。むつけた顔になる千尋に、悪びれなくにっこりと笑いかけてくる。
「教えてくれてどうもありがとう、式神さん」
「おや。私が本物ではなく式神だと、どうして分かるの?」
 確かめようにも確かめようがない。姿かたちは本物と寸分たがわぬのだから。
「だって、どうせまた消えちゃうんでしょ?」
 ハクは微笑みながら小首を傾げたかと思うと、やはりふっとかき消えてしまった。
「──ハクの意地悪」
 千尋は机に並べた三枚の人形に毒づく。すると背後から腕が伸びてきて、袖の中に閉じ込められた。
「からかうつもりはなかったんだよ。機嫌を悪くしたなら、許しておくれ」
 耳元で囁く優しい声はまぎれもなく彼のもの。だが、疑心暗鬼の千尋は容易には信じない。
「そんなこと言って、どうせまた消えちゃうに決まってるもん」
「もう消えたりしないよ」
「嘘」
 千尋は唇を尖らせて振り返った。もう騙されないぞ、というかたくなな態度。ハクが目を細めて笑う。
「なかなか手強いね。なら、嘘じゃないことを思い知らせてあげる」
 そう言って、彼はおもむろに腰を折り、千尋の顎に手をかけた。突然のことに身を竦ませる彼女の唇に、そっと口づけをする。
「ね?──式神なら、こんなことはできない」
 千尋は両手で唇を覆った。みるみるうちに顔が赤らんでくる。
「い、意地悪!」
「千尋にだけは、優しくしているつもりなのだけど?」
 意外にも悪戯好きな恋人が、美しい顔で微笑しながらしらじらしくそんなことを言っていた。





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