掟 | ナノ




 星々が悠遠のかなたできらめいている。眠る少女の頬に、星明かりが音も無く降りそそいでいた。その心休まる寝顔を、六道りんねはベッドのそばに立ち尽くして見つめている。
 この人間界からりんねが自らの存在を消去したのは、つい先程のこと。高校の卒業式を終えたあとのことだった。将来の展望をあれこれ模索した結果、卒業を機に死神界で暮らすことを決意したりんねは、みずからがこの世に存在した証を抹消することにした。関わった人々の記憶、卒業アルバムや写真、形あるものないもの全てから、六道りんねという少年を消し去った。
 この少女にも、催眠術をかけた。以前はしくじったが、今回は絶対にとけない自信があった。三年間、不可思議な放課後をともに過ごしたこの少年を、彼女が思い出す日はもう永遠に来ないだろう。
 りんねの視線は、真宮桜が腕に抱いているイルカのぬいぐるみへと移った。三年前に十文字翼や当時の級友たちと遊園地に行った時、りんねがUFOキャッチャーでとったものだ。懐かしさに彼の表情が自然とやわらぐ。
『大切にするよ』
 あの時、彼女が向けた笑顔が、心に焼き付いて離れない。きっとあの瞬間から、自分の中で真宮桜という少女が特別な存在として息衝くようになったのだろう、とりんねは思う。あの日以来、気づけば視線の先にはいつも真宮桜がいた。
 お世辞にもかわいらしいとは言えないぬいぐるみを、あの日の言葉通り桜がこうして大事にしてくれていたことが、りんねは嬉しかった。口元がほころぶ。
『……ありがとう』
 小さな声で囁いた。しかし、声はけっして音を結ばない。喉を押さえながらりんねは長い睫毛を伏せた。──それは死神界の掟によるものだった。
 りんねが高校生活を送った三年の間で、死神界は幾多の変遷をたどった。乱れきった風紀と規律を正すという名目において、曖昧だった掟はより明確に、そして厳格になった。そのひとつとして、死神たちは生ある人間との関わりを極力遠ざけなければならなくなった。死した魂と向き合うべき死神は、生ける人間とは本来相容れぬ存在であるべきだというのが、立法者達の主張だった。
 新しい掟のもと、死神はむやみに人間界を訪れることを禁じられた。また、死期の近い人間以外とはいっさいの関わりをもってはならないとされた。死神の声が直接聞こえるのは、死神が迎えにきた人間のみとなった。
 死神界で生きると決めた時から、りんねは死神になった。あちらの世界に属する以上、その掟に拘束されるのは仕方のないことだった。それでも、もうこの少女に自分の声が届かないのかと思うと、今更になってりんねはひりつくような寂寥感を覚えた。二人の間が、永遠にとけない薄氷で遮られてしまったかのような気がした。
『でも、どっちにしろ、もうお前は俺を覚えていないからな……』
 独り言を呟けば、のどがひやりとした。隙間風のような空気音だけが口からこぼれる。やっぱり、だめか。寂しく微笑しながら、りんねは手を伸ばした。桜の腕に抱かれているイルカのぬいぐるみを、彼女を起こさないようにそっと取り上げる。
 ──本当はいつまでも側にいたかった。でも、お前と俺とでは、生きる世界が違う。
 ぬくもりの残るぬいぐるみを胸に抱きながら、りんねは万感の思いをこめて彼女のあどけない寝顔を見下ろした。三年前のあの日、初めての恋を気付かせてくれたこのぬいぐるみを再び手にしたことで、彼女のもとへ置き去りにしていた思いを引き取ったような心持ちがする。
『俺は、お前を忘れることができるんだろうか――』
 誰にともなく、既に答えの分かりきっている問い掛けをした。哀感が静かに心に満ちてゆく。忘れることなんて到底できるはずがないのに。りんねは、腰をゆっくりと前へ屈めた。枕についた手がパンヤにのみ込まれて沈んだ。
 きめの細かな頬に触れると、丁寧に磨かれた玉のような手触りがした。罪悪感がちらりと彼の心を過ぎった。それすらも、さざなみのように胸中にひろがる幸福感によって押し流された。
 ──ありがとう、真宮桜。お前のおかげで、毎日が楽しかった。
 慕情と友情、どちらともつかない思いをこめて、りんねは彼女の額に唇を寄せた。途端に恥ずかしくなって、後ろに飛び退いた。自分を叱咤するように、ほてる頬をぴしゃりとたたいた。幸福感に満たされた今なら、ちゃんとお別れすることができそうだと思った。
 りんねは何度か深呼吸をした。心を落ち着けて、ぬいぐるみを強く抱きしめる。壁際にむかって、一歩一歩踏み出していく。
 安らかな寝息を立てる彼女を振り返り、彼は声もなく告げた。
 ……さようなら。





end.

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