一言主


 油屋を訪れる八百万の神々はさまざまだが、そのなかには一言主【ひとことぬし】という名の神がいるという。
 いにしえから名を馳せる神でありながらその素性はよく知られていないが、その名の示す通り、言霊をつかさどる神であり、たとえ一言であっても聞き逃すことなく、ひとの願いを聞き入れてくれるという善神だ。

 千尋は宴の食膳を運ぶ最中、廊下で偶然帳場から出てきたハクと出くわした。
「ハク様、帳簿の整理は終わりましたか?」
「ああ。千尋はまだ忙しそうだね?」
「うん。でも、そろそろ宴会も終わるはずだから。ああ、久しぶりに休日がほしいなあ。ハクとどこかに遊びに行きたい!」
 人の目がないのをいいことに、何気ないおしゃべりをして二人きりの一時を楽しんでいると、ふと廊下の向こう側から歩み寄ってくる影があった。すらりと伸びたその姿は、蛙男でも、ナメクジ女のものでもない。
「あの、こちらは従業員用の通路なのですが──?」
 思わず声をかける千尋の唇に、ハクがそっと人差し指をあてた。しずかに、と視線で制される。
 俯いていた謎の人影が顔を上げると、千尋はつい「あっ」と声を上げてしまった。その人は、ハクとまったく同じ顔をしていたのだ。
「失礼ながら、あなた様の御名をお聞かせ願えますか?」 
 さりげなく千尋を背中にかばいながら、自分と生き写しの姿かたちをしたその存在にハクが訊ねると、
「われは悪事も一言、善事も一言、言い離つ神なり」
 と、相手はハクの凛とした声で返してよこした。声まで真似ているらしい。
 何を言っているんだろう?わけがわからず千尋はぽかんとするが、相手のその言葉でハクは合点がいったというように頷いてみせた。
「では、私の衣をご所望ですか?一言主様」
「いいや。そなたもまた、神籍に身を置くのであろう。龍神の若造よ」
 神を相手に追いはぎなどせぬよ。人は別だがな。
 一言主はフフ、と薄い唇を引いて笑う。なまじハクとそっくりなだけに、その不意打ちの微笑みについどきりとしてしまう千尋だった。まるで双子みたい、と好奇心もあらわにまじまじとその顔を見つめていると、ふと視線を感じたらしい一言主が彼女を見た。
「娘」
「は、はい?」
「この一言主、そなたの願い、しかと聞き入れたぞ」
 わたし、願いなんてした?思い当たる節のない千尋が小首を傾げていると、一言主は手にしていた帳簿の角を(これもハクを真似たらしい)口元にあてて面白おかしく彼女を眺めた。
「休みがほしい、その若造とどこかへ遊びに行きたい、と今さっき申したであろう」
「あっ」
「その願い、叶えることは造作もない。こうして相まみえたも何かの縁、聞き入れてやろうぞ」 
 千尋が目を丸めているうちに、一言主の姿は霞のようにふっとかき消えてしまった。

 翌日、湯婆婆が何の前触れもなく、帳簿係のハクと小湯女の千尋に休日を与えた。
 あまりあてにしていなかったが、どうやら一言主の霊験は確かなようだ。
 嬉しそうに目配せする千尋に、ハクは彼女にだけ分かるように、そっと片目を瞑ってみせた。


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