※R18
 

 桜がこぼしたか細い溜息に、机の上のろうそくの火が、ゆらりと危うげに揺れた。ふるびたクラブ棟の一室にはもう随分前から電気が通っておらず、外はすっかり闇に暮れているのに、明かりといえばこの空き缶に立てられた、心もとないろうそく一本だけ。いまにも消えてしまいそうな頼りなさげな火に、顔の半分だけちらちらと照らされたりんねは、先ほどから怖いくらいに真剣な表情をしている。彼女を見つめるとれたての柘榴に似た赤い瞳が、切なそうにゆがんでいる。
「──やはり、帰ってしまうのか?」
 同じことを、また彼が囁いた。机の上に置いた桜の手に、りんねの大きな手がそっと乗せられている。ずっとこの調子だ。桜がすこしでも動こうものなら、その手を強く握り締めて引き留めようとする。桜は焼け付くような彼の眼差しから、逃げるように目を背けた。手首の腕時計が、夕飯の時間のおとずれを告げている。今日のごはんは、なんだろう。そんなことを考えている余裕は、いまはない。
「明日もまた、会えるでしょう?」
 それじゃ、だめ?
 りんねは聞き分けのない子どものように、目をぎゅっと閉じて、首を振る。
「だめなんだ。明日じゃなくて、今、お前にそばにいてほしいんだ」
 磨膝でりんねが近付いてきて、彼女との距離をつめた。色褪せた畳と彼のジャージがこすれる音をぼんやりと聞いていた桜は、顎に手をかけられて、なされるがままに上を向く。下唇をそっと押しひらく彼の指。それからはあっという間で、目を閉じる暇さえなかった。キスの味を覚えたての頃のりんねは、こんなふうに性急に唇を重ねてきたりはしなかった。もっと慎重で、注意深くて、お互いの息継ぎのタイミングにさえ気を配るような、彼らしい落ち着きぶりを見せていた。なのに今はまるで別人のように、すっかりせっかちになってしまった。応えようとすればするほど、もっと、もっととねだる彼。おかげで桜は、ついていくのが精一杯だ。
 りんねが顔の角度をかえて、また彼女の舌を絡めとる。元来几帳面な性格がなせるわざなのか、それとも故意でやっているのか、彼のキスは執拗だった。桜の全部を味わい尽くそうとでもいうように、なかなか終わろうとしない。桜はしだいに息苦しくなって、りんねという海に溺れてしまいそうになる。訴えかけようとして、広い胸をトントンと叩くと、夢中になっていたりんねがようやく彼女に無理を強いていることに気付いて、唇を離した。のみ込みそこねた唾液が、二人のあいだでつうっとか細い糸を引いて垂れた。ふ、と彼が名残惜しそうに溜息をこぼす。
「……すまん」
 しっとりと濡れた唇を無造作に手の甲でぬぐって、りんねは睫毛を伏せる。そういう仕草をする彼は、背筋がぞくっとするほど艷めいてみえた。キスの余韻でまだ湿っぽい声が、逸る感情を無理に抑えたように落ち着きはなっている。
「こんな時間に、無理に引き留めるなんて。──彼氏としてどうかしているな」
 そういう顔は、本当にずるい。今更、彼女に火種を植えつけた途端にしおらしくなるのは、それは卑怯だ。

 
 溺れてしまう、これ以上進んでしまっては──。
 初めてキスの味を知った時も、それ以上の境界線を越えた時も、同じ場所で、同じことを思った。心安らぐはずの彼女とのひと時が、いまだかつてないほどりんねの心を波立たせ、ぐちゃぐちゃにかき乱したのだ。
 大切な人を手中に収めた、天にも昇るような幸福感。より貪欲に彼女を求めようとする自分への、嫌悪感。その二つがせめぎあい、ぶつかりあい、今まで多くを求めることのなかったりんねの心に、生まれてはじめて強い、強い執着を生んだ。
「……あのね、六道くん」
 目の前の桜が、りんねのジャージの胸のあたりを掴んでいる。何度も何度も、何事かを言いかけては躊躇している。彼は身体の奥で、ふつふつと沸き立ちはじめたものを感じている。自惚れでなければ、きっと彼女も。
「もし六道くんが、ここにもう少し、いてほしいっていうなら──」
 あと十分。いや、二十分。できれば、もっとほしい。
 りんねの手が遠慮がちに伸びた。彼女の襟元でしっかりと結ばれた臙脂のボウタイを、指にからめてはずす。最初は覚束なかった手つきも、何度か場数を踏んだ今はだいぶこなれてきた。りんねは彼女の制服をひとつひとつ、自分の手で脱がせていくことを好んだ。つとめてゆっくりと脱がせることで、自分で自分を焦らすのだ。自虐癖があるわけではないが、おいしい食べ物は最後までとっておきたいタイプである。よだれが出そうになるのをこらえて、一枚一枚、ていねいに剥いていく。
「六道くん、手が、震えてる」
 シャツの最後のボタンをはずし終えると、りんねは自分の手を目線の高さに持ち上げて苦笑する。緊張している、と桜は思っているのかもしれない。だがそうではない。これはむしろ、武者震いに似ている。おとなしく服を脱がされている自分の姿が、いったいどれほど彼の劣情を煽るものなのか、きっと彼女は知る由もないだろう。
 花と石鹸がまざったような匂いのするシャツをはだけさせ、なかに手を滑り込ませた。じっとしていた桜の肩が、肌にじかに触れられて一瞬、ぴくりと跳ねあがる。白地にピンクのレースがついた可愛らしい下着は、数秒とりんねの目にとまることはなかった。背中のホックをはずすと、手に余るほど質感のある胸がこぼれ落ちて、彼はいつもそうするように、その片方の頂に唇をよせた。いとしさがこみ上げて、歯と歯ではさんで甘噛みすると、また彼女の身体が小さく反応した。
 こうしていると、いわゆる「退行」を経験しているように思える。とはいえ母親の顔も知らなければ、可愛がられた記憶ももたないりんねは、桜を見ず知らずの母親と重ねることはない。そこに懐かしさはなく、今こうして彼女というゆりかごに抱かれている心地よさを味わうばかりだ。ちらりと上目遣いに視線を流すと、敏感なところを吸われ続けている桜は、頬をうっすらと上気させていた。
「あ、──あと、何分いればいい?」
 可愛い真宮桜。彼だけの、彼女。
「すまん。もう少し、我慢してくれ」
 もう少し。それがあとどのくらいになるのかは、りんね自身にさえ見当もつかない。あと十分?二十分?すぐにでも帰さなくてはいけないと分かっている。そんなことはとっくに承知の上だ。けれど理性が働きかければ働きかけるほどに、情けないことに、帰らなくちゃと焦る桜の姿に、ますます欲情してしまうのだ。
 りんねの顔が、下へ下へとおりていく。ほっそりとくびれた彼女の腰周りは、力を加えれば折れてしまいそうで、りんねのそれとはまるで違う。こんなに華奢な身体で、どうやって彼を受け入れているというのだろう。
 白い太腿を、ゆっくりとなぞりあげる。みずみずしい肌が手のひらに吸い付くようだ。いつもむき出しにしているところのはずなのに、彼女は実はここが弱くて、りんねの手の動きに耐えられなくなったのか、口を覆う指の間から「や、だっ」と押し殺したあえぎ声をこぼした。
 これからもっと、嫌がられてしまうかもしれないな。でももう、どんなに嫌がられたって、やめてやることはできないが。
 そんな意地悪なことを思いながら、りんねは閉じかけた彼女の膝をひらかせて、脚の間に顔をうずめた。膝から太腿をなぞるように唇を這わせて、しだいに脚の付け根へ。入れ知恵を受けず、手探りにすすめてきた。正直まだ分からないことも多い。けれど、どこをどうすると桜が反応するかは、かなり分かるようになってきた。天井を見上げる桜の背中がぶるりとふるえ、鼻にかかった甘ったるい声で彼の名を呼んだ。りんねは前髪から滴り落ちた汗が目に沁みるが、一秒でも長く桜のことを見ていたくて、目を閉じようとはしなかった。彼の赤い髪に、彼女がさらりと白い指を通す。下からのりんねの視線を感じて、どうにか呼吸をととのえ、無理に笑おうとしている。けれど虚勢も長くはもたず、後ろに大きく仰け反り、やがて支えきれなくなった背中は畳に落ちついた。
 子どもができないように。そのくらいの知識はある。だから、なるべく気を付けるようにはしている。できる限りの範囲で。でも確実に安全だといえる自信は、ない。
 こんなことを言ったら、無責任だと彼女に責められるだろうか。でも、ほんとうのことを言うと──
 彼女に、植えつけてしまいたい。
 独占欲とか支配欲とか、そういう安っぽいものじゃない。もっと切実で、純粋な願望だ。少なくともりんね自身は盲目的にそう信じている。
「六道くん、」
 熱に浮かされた桜の目が、困惑している。りんねは彼女の上から、その目を見おろしている。
「さっきより、少しおおきく、なってない?」
「ああ、」
「──どうして?」
 どうして?りんねはつい、ふっと笑ってしまう。
「それは、真宮桜、お前のせいだ」
「わ、たし?」
「そうやって、」
 きつく、締め付けたりするから。全部、持っていこうとするから──。
 はっ、と同時に顔を見合わせた。当たってる、と、言った直後に、恥じ入るように桜が顔を背けた。ほつれた髪がひとすじ、淡く色づいた頬に張りついている。動きを止めたりんねは、彼女の身体をそっと抱き起こした。繋がったまま、至近距離で見つめ合う。吸い込まれそうな彼女の瞳に、陶酔とも諦めともつかない表情をした彼自身が映っていた。
 もう、だめだ。
 ここが彼女の、奥。行き着いてしまった。どう頑張っても、これ以上深くは、繋がれない。
「すきだ」
 すきだ、すきだ、おまえのこと、あいしてる。この世界の誰よりも。自分自身よりもずっと。
 答えなんていらない。こっちは有り余ってるから、受け取れるぶんだけ、受け取ってくれ。
 もう片時も離れていたくない。ずっとこのまま、こうして心も身体も繋がっていたい。魂までとろとろにとけ合って、ひとつになりたい。ふたりのあいだに境目なんてなくなるように。
「六道くん、わたし、もう──」
 だめかもしれない。
 おれもだ。
 もう少し、こうしていたかったけど、もう、だめみたいだ。
 そろそろ、一緒に、いこうか──。

 恋は底の見えない海。その海は、りんねと桜以外は誰も知らない。他の誰も知る必要はない。二人だけのためにゆったりとさざめく水。普段は凪いで穏やかな、けれど時に荒くれだって白波を立てることもある、不安定なその空と水との境目に、
 何度も、何度でも。ひとつになって、溺れるほど深く、沈んでいく。



2015.05.05 こどもの日なのに、おとなな二人。

 
 
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