管狐 - 7 - | ナノ

管狐 7





 卑怯者──。
 りんねは怒りを通り越して、身体が急速に冷えていくのを感じていた。にわか雨に打たれた全身から、みるみるうちに血の気が引いていく。
 呼ばれて桜が振り返らなければ、りんねの勝ち。だが振り返ってしまえば、あの狐男の勝ち──。
 なぜあの時、気が付かなかったのだろう。
 この賭けは、はなからりんねには勝ち目がなかったのだ。
 後ろから呼ばれれば、振り返ってしまうのが、人の性というものなのに。
「振り返るな、真宮桜!──それは俺じゃない、振り返ったらおしまいだぞっ」
 必死の思いで叫ぶが、ぶ厚い結界に阻まれて桜まで声が届かない。結界越しに見える彼女は、いまにも背後を振り向いてしまいそうだ。恐ろしくて全身に震えが走った。このままでは桜は、彼女の背後で手ぐすね引いて待っている、あのよこしまな狐男のものになってしまう──。そんなことは絶対にさせるものか、とりんねは力まかせに鎌をふるった。どうにか結界を破ろうとするが、何度刃を打ちつけても、びくともしない。次に黄泉の羽織を脱いでひっくり返してみるが、万年金欠状態がたたりストックが品薄状態で、役に立ちそうな道具はひとつとして出てこない。まさに、万事休すだ。行き詰まったりんねは、いよいよパニック状態に陥りそうになる。
 ああどうしよう。
 このままでは彼女が、真宮桜が、
 桜──。


 後ろの正面、だあれ?
 不意にどこかから聞こえてきた声に、振り返りかけた桜は動きを止めた。
 りんねの呼ぶ声に何の疑いもなく振り返ろうとしていた彼女だったが、ふとその優しげな声に、奇妙なひっかかりを覚えたのだ。
 後ろの正面。後ろの正面。何か、思い出さなくちゃいけないことがあった気がする──。
 桜は記憶を遡った。ずっと忘れていた幼い頃の記憶。思い出さないように、と封じ込めているうちに、遠い過去になってしまったあの日の出来事。この神隠しの森で、あの時、一体イヅナは彼女に何と言った?

いいですか。
この森で名を呼ばれても、
決して振り返ってはいけません。
さもないと……

「後ろを振り返るな、桜──!」
 今度は真正面から、りんねの声がした。喉を涸らすかのような、切羽つまった声。
 彼の姿はどこにも見えない。目の前にはただ、鬱蒼と茂った木々と藪が見えるばかりだ。けれど焦燥して桜を呼ぶ彼の声は、らしくもなく呼び捨てではあるけれど、それは絶対にまがいものなどではなかった。
 後ろの正面、だあれ?
 六道くんは、後ろと正面、どっちにいるの──?
 答えを見つけた桜は、満面の笑みを浮かべた。彼女にとって、ヒーローはただ一人なのだ。呼ばれて応えたい相手も、たった一人。それは他の誰でもない。
 もう後ろは振り返らない。彼女は正面に向かって、迷いなく駆け出していく。「後ろの正面」にいた異形は、予想だにしなかった展開に、狐面をぽとり、と落とす。桜は振り返らなかった。賭けは彼の負けだった。降り続いていた天気雨が少しずつ上がっていく。毛羽立っていた地面が凪いでいく。しずしずと空の輿を運んでいたまぼろしの花嫁行列は、赤提灯の明かりを揺らめかせながら森の奥へと消えていく。あの時の少女は、遠い日に彼がした忠告を思い出してしまったのだ。彼女が狐のもとへ嫁入りすることは、決してない──。
 パチン、と風船がはちきれるように、結界がやぶれた。驚いて目を丸めるりんねの真正面に、頬を上気させた桜が立つ。
「六道くん、私を呼んでくれて、ありがとう!」
 手を強く握られた。りんねはどうして感謝されているのか分からずにたじろぐが、とりあえず、どういたしまして、とだけ言っておいた。不思議なものだ。ついさっきまで、あれほど怒ったり焦ったりと忙しくしていたはずなのに、こうして目の前で嬉しそうに笑っている桜を見ていると、色々とどうでもよくなってくる。
「──無事だったならいいんだ。怖い目にあったか?怪我はないか?」
「大丈夫だよ。六道くんこそ平気?」
「ちょっと待て。ここ、怪我してるぞ」
 なごやかな表情をしていたりんねが急に血相を変えて桜の頬に触れた。桜は少しだけ彼の指が触れたところに刺激を感じるが、なんということはない。イヅナが放った矢がかすめたときにできた、ほんのかすり傷だ。
「これくらい、絆創膏貼っておけば治るよ。それより六道くんは?」
「絆創膏で治るのか?痕が残ったらどうする?」
「大丈夫。うちに帰ったらちゃんと消毒するよ」
「誰にやられたんだ?あの狐男か?」
 ううん、と近くで呻き声があがった。りんねと桜は、弾かれたようにぱっと手を離す。
「ちょっと桜、金縛りがとけたんだったら、早くこの縄解いてくれない?」
 木に括りつけられて気を失っていたれんげだった。翼もそのすぐ近くの木でうんうんと唸っている。すっかり二人のことを忘れていたりんねと桜は、きょとんと顔を見合わせて、けれどすぐに逸らした。二人とも頬がほんのりと染まっていた。かすり傷一つにかまけて周りが見えなくなっていたなんて、すこし恥ずかしかった。


 



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