This time, I shall have thee in my arms.



 わたしにとって、夏は何よりも待ち遠しい季節だった。
 身も心も焦がすような夏が来れば、ずっと前に誰かと交わした約束が、今年こそは叶うような気がする。あのどこまでも続く青空に、一筋のまっすぐな線を引く、細くて白い飛行機雲を、こうして胸がいっぱいになるほど懐かしく、いとおしく思う理由も──。
 誰と何を約束したのか、それは、憶えていない。なぜその人を待っているのかも、わたしには、まるで思い出せない。くやしくて、もどかしくて、わたしは夏が来るたびに何度でも記憶を遡るのに、きっとこの肌で、心で感じたはずのあの夏の日へ、どうしてもたどり着けない。まるで魔法にかけられて、何よりも掛け替えのないものだったはずのその記憶だけが、わたしの頭のなかからとけ出してしまったかのように。
 夏の日差しの下で、来る夏も来る夏も、待ち焦がれつづけたせいかもしれない。プールの帰りに買うシャーベットみたいに、夏祭りでねだったかき氷みたいに、いつの間にかわたしの一番大切な思い出も、きれいに溶けて水になって、滴り落ちてしまったのかもしれない。
 けれどわたしは、確かに憶えている。誰かとあの夏に、約束を交わしたことを。その人のことを、いつまでも待っていたい、どんなに時間がかかっても構わない、と思ったことを。
 たとえ記憶がとけてなくなってしまっても、わたしの心は変わらない。夏の日差しにも負けない、頑丈な氷。人には決して見せない心のなかで、わたしは頑なに信じ続けている。
 あの夏、あなたは確かにわたしの隣にいた。わたしのこの手を、優しく握っていてくれた──。
 あなたの手がどんなかたちをしていたのかは、思い出せない。なのにそのぬくもりを、この手のひらが鮮明に憶えている。
 ──離してしまった手をもう一度繋ぎたい。あのぬくもりを、この手に取り戻したい。
 だから今年も、このトンネルの前で、わたしはあなたを待っている。顔も憶えていないあなたを想って、何度でも心を躍らせながら。



 さあ、行きな。振り向かないで──。
 草原の向こうに消えていく背を見送った、あの夏の日を、私は一日たりとも忘れたことはない。
 私には決して踏み込むことのできない石段。それを千尋は、ひと思いに駆け下りていった。手を離したその瞬間、私と千尋の世界は切り離された。その胸を抉られるような喪失感に、とうに覚悟は決めていたにもかかわらず、私は途方に暮れた。
 それからの日々は、地道な努力の積み重ねだった。トンネルの向こうに帰れるようになるためには、何よりも根気が必要だった。私は努力したが、新たな師となった双子の魔女の姉からは、事を急かぬようにと何度も教え諭された。失ってしまった私の依代を、千尋というよすがを取り戻すためならば、どんな試練をも厭わぬ私ではあったものの、この執心こそが弱点にもなりえるのだということを、認めざるを得なかった。
 あの夏の日から、数えて十度目の夏が過ぎた頃からは、私の希求はより一層切実なものとなった。神と人間が同じ時を分かち合えるのは、百年にも満たないあいだのみだ。私はこれ以上時を無駄にしたくはなかった。一瞬でも長く、千尋とともに過ごしていたかった。
 ──千尋が今も、待っていてくれると信じてやまない私は、傲慢だろうか。離れていても、時を経ても、あの夏の日からずっと、ふたつの心は通い合ったままなのだ──そう感じるのは、私の独り善がりだろうか。
 ──千尋。深い水の名をもつ娘。龍神の端くれである私の、かつての依代であった小さな川を、補ってあまりあるほどにその存在は大きい。
 私のよすが。──私の帰りつく場所。
 あの夏から数えて十四年。いまこそ私は、帰路に着こうと思う。
 あの日踏み出すことのできなかった石段を下り、千尋の小さな背を呑み込んでいった、青く広がる草原を越える。きっと千尋もそうだっただろう、なぜかふと、もと来た道を振り返りたくなる衝動を、どうにか堪えて、もう一つの世界に通じるトンネルをくぐった。
 暗いトンネルの中、私は風向きが変わったのを感じた。抗うような向かい風が、背を押す追い風に変わったのだ。かつて川という依代を失った私を、非情にも拒んでこのトンネルの向こうへと追いやった、千尋の住むあの世界が、再び私を受け入れようというのだろう。
 風に背を押されて、私は出口へと駆け出した。喉から手が出るほどほしいと願い続けた景色が、そこにはあった。青々とした鎮守の森、木々の間から青空に向かって伸びる飛行機雲を、飽きもせずにじっと見上げているその姿。
 私は手を伸ばして、彼女の名を呼んだ。私自身の真名よりもはるかに重く掛け替えのないその名を。
 振り向かないで、と諭したあの日とは逆に、振り向いておくれ、と切に願った。
 そしてその願いは、一瞬と待たずして成就した。
 ──千尋。今度は言霊に力が宿るように、名を呼んだ。すると、呆然としていた千尋の目に、しだいに光が満ちていった。かつて私が、彼女のおかげで長らくなくしていた真名を取り戻した、あの時のように。
 一度あったことは忘れない。ただ思い出せないだけで──。そう教えてくれたのは魔女だが、そのことを身をもって知らしめてくれたのは、誰あろう千尋自身だった。
 千尋はもう飛行機雲に恋焦がれてはいなかった。大粒の涙に潤むその目は、まっすぐに私を見上げていた。私も千尋だけを見つめ、それだけで空にも等しかった心が、溢れそうなほど満たされていくのを感じた。他には何も要らない、何も求めはしない。千尋さえいてくれれば、この世界に欠けているものなどありはしない。
 離した手をもう一度、繋ぎたかった。そのためだけに、いくつもの夏を、千尋のいないあの街で過ごした。けれど手を繋ぐだけではもう、到底満足できそうもなかった。永遠に近い時を生きる神にも、やがて成長する時がやって来る。淡い初恋は、いくつもの夏を越えて、確かな愛に育った。かつて手放すことで願った千尋の幸福を、これからはこの手で叶えたい──。

 千尋。
 今度こそ、私はそなたをこの腕にいだこう。





2015.06.24

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