まつとしきかば、今かへりこむ


 幼い頃からずっと、忘れられない旋律がある。
 はるか遠い昔日に聴いたことのある、古びた童歌だ。物心ついた時にはもう、その旋律が頭の片隅で小さく響いていた。繰り返し、繰り返し、まるで絶え間なく水車がまわるかのように。自分の声ではなく、どこか懐かしいような愛おしいような、幼い少女の澄んだ歌声で──。
「その歌声を聴くたびに、俺はもどかしくてたまらなくなるんだよ。何をやってるんだ、って自分を叱りたくなるんだ」
 少年は鞄を放り出して、草の上にごろりと仰向けになった。
 ほんの少しの間に、空が変わったなと思う。
 つい先程、学校を出てきた時には透き通るような青空に、子どもの頃縁日でねだった綿菓子のような入道雲がもくもくと湧き上がっていた。学校からの畦道をふちどるように生えた向日葵がよく映える、すがすがしい夏空だった。なのに今はもう、すっかり黄昏時の侘しい空模様だ。赤い空に向かって伸びた木々の枝先で、もう若くはない葉が風に擦れてさわさわと揺れている。つい先週まではあれほど騒がしかったひぐらしの鳴き声が、今週に入ってからはめっきり数が減ったようだ。短い夏休みがあっという間に終わり、季節は晩夏からしだいに秋へとうつろいつつあった。
 めぐりめぐって、また秋が来るのだ。
 果てしなく広い空に、冴え冴えと澄み渡った十五夜の月が満ちる、その季節が。
 今年もまた、少年は夏の残滓のようにじりじりと心をこがす、焦燥を覚えている。
「俺には、絶対に見つけなくちゃいけない人がいる。手遅れになる前に、今度こそ見つけないと。──見つけて、何をするべきなのかは分からない。その人が誰なのかも、分からない。どうして捜さなくちゃいけないのかさえも。でも、その人に逢えばきっと、全てが分かるような気がするんだ」
 ざあっ、とつむじ風が吹く。彼が今通ったばかりの畦道を通り抜けて、黄金に色づきつつある田圃の稲穂を一斉に薙ぎ倒し、向日葵の群れをいたずらに揺らしたあと、少年の隣で黙って話を聞いている幼馴染の少女の、背中に流れる長い黒髪を宙に散らした。
「今日は、風が強いね」
 顔周りの髪を耳にかけながら、風を感じ入るように目を閉じて、少女が一言。ああ、そうだな、と上半身を起こしながら少年は返した。
 幼馴染の少女は小首を傾げて、さっき畦道で摘んだばかりの向日葵を眺めている。白いセーラー服の半袖から伸びた細い腕は、子どもの頃から一緒に外で遊び回っているはずなのに、日に焼けた彼のそれとは違って雪のように白い。少年が眩しそうに見つめていると、向日葵に飽きたらしい少女はふと、思い出したように訊ねてきた。
「ねえ。その人は、どんな童歌を歌っているの?」
「どんなって……。きっと、すごく古い歌だよ。俺達が生まれるよりも、ずっとずっと前の歌」
 興味が湧いたのか、少女が少年の方に向き直った。気まぐれな彼女がこうしてきちんと話を聞こうとするのは稀なことだ。絶好の機会だと思い、少年は居住まいを正した。遥か遠い記憶を手繰り寄せるかのように、彼方を見つめて目を細める。
「始めは、どうってことない童歌なんだ。多分誰もが知ってて、気軽に口ずさんでるような歌さ。でも、途中からがらりと曲の調子が変わる。似てるようだけど、全然違うんだ。最初はあんなに気楽な歌なのに、だんだん平べったくなっていく。歌ってる人の声も、まるで感情を忘れたみたいに、どんどん単調になっていくんだ。その声を聴いてると、怖いような悲しいような、遣る瀬ないような、とにかく不思議な気持ちになるんだよ。──あれはきっと、この世の歌じゃないんだ」
 きょとん、と少女が目を丸めている。急におかしなことを言い出した、と呆れているのだろうか。真面目くさって語ってしまっただけに、後に引けない少年はむきになった。
「おい、からかってるわけじゃないぞ?今まで誰にも言ったことなかったけど、これ全部、本当の話だからな。嘘なんかついてないぞ」
「嘘だなんて。そんなこと、思ってないよ」
「本当か?」
「うん。私は信じるよ、その話」
 少女は薄い唇で優しく微笑み、目を閉じた。長い睫毛がくっきりと、彼女の目の下に影をおとした。それを見つめる少年は、つい神妙な心持ちになる。
 幼馴染の彼女は、誰よりも美しい少女に育った。裸足で野山を駆け回っていたやんちゃ娘が、ある時からふと見違えるようにたおやかになったのだ。生粋の田舎育ちなのに粗野なところがなく、ふとした所作の一つ一つに、内から滲み出る気品を感じられた。兄弟姉妹のように彼女と遊び親しんだ幼馴染達も、思春期に入ってからは自然と彼女のことを意識するようになり、距離を置いたりしだした。少年だけは今も変わらず彼女と接しているが、そのおかげでしょっちゅう周囲からはからかわれている。なにしろ隣町の中学校からも、とんでもない美少女がいるらしいと噂を聞き付けた男子達が、遠巻きに見物しに来るほどだ。彼女の靴箱にそれらしい手紙が入っているのを、少年は何度見かけたか分からない。とはいえ、いつもこうして一緒に帰っているせいで、彼女と実は恋仲なのではと噂を立てられる相手は大抵、彼だった。そのつど躍起になってもみ消しにかかる彼だったが、当の彼女はそんな彼の様子がおかしそうに笑うばかりで、あまり気にしていないようだった。彼が意識していることも知らずに。
「その人を、待っているの?」
 少年ははっと我に返る。目を開けた彼女が、思いのほか真剣な眼差しをしていた。
「その人が目の前に現れるのを、今までずっと、待っていた?」
「俺は──」
「逢えるかどうかなんて不確かなことなのに、信じていたの?いつか逢える日が来るのを、ずっと、心待ちにしていた?」
「──ああ、そうだ」
 彼女の言う、ずっと、という言葉に、とてつもない重みを感じた。今まで少年が生きてきたほんの十数年という年月は、そぐわないような気がした。そのことを実感した途端、なぜかこうして彼女と向き合っている現実に、その奇跡のようなめぐり合わせに、胸がつかえるような思いがした。少年はシャツの上からそっと心臓を抑えた。それは愛しい人と対峙する時のように、忙しなく早鐘を打っていた。少女と向き合う時、これまでも幾度となく経験したことだった。けれど今回の彼は、今までとは比べものにならないほど切実だった。
「ずっと待ってた。ずっと、逢いたかった。だから千年の間、俺は捜し続けたんだ。何度も、何度でも、形を変えて……」
 声が掠れた。自分の口から出てくる言葉なのに、何を言っているのか少年にはさっぱり分からない。まるで自分ではない誰かが、自分の口を借りて彼女に話しかけているかのようだ。けれど彼はその誰かの想いを、不思議なほどすんなりと受け入れることができた。あたかも始めからそうすることが必然であったかのように。
「お前もきっと、知ってるはずだ。俺が聴いた童歌を。途中からは、お前が教えてくれたんだから」
 少女は震える唇を真一文字に引き結び、泣き笑いのような顔をした。ああ、この顔を知っている──と少年は思った。
「忘れていたわ。ううん、思い出せずにいたの。今の今まで、気が付かなかった」
「俺もだよ。どうして、気が付かなかったんだろう?」
「こんなに、すぐ傍にいたのに」
「ああ。灯台もと暗しって、まさにこのことだよな」
 なあ、タケノコ。
 小さな子にそうするように、優しく呼びかける少年。見開かれた少女の目から、堰切ったように涙があふれた。
「覚えているの?ずっと昔のことなのに?」
「覚えてるさ。忘れるはずが、ないだろう」
 これは彼という命が覚えている、魂に深くきざまれた記憶だ。何度形を変えても、決して薄れることはない。だから彼女との邂逅がたとえ千年も昔のことだとしても、それは彼にとって色褪せた思い出ではない。彼にはまるでつい昨日のことのように、鮮明に思い出せるのだから。
「タケノコ。ちょうど俺達が出逢った場所が、ここだ。また逢えるとしたら、きっとここだって、信じてた」
「ええ。捨丸兄ちゃん、あなたはここで、私のことをずっと待っていてくれたのね──」
 天の羽衣を脱ぎ捨てた彼女は、遥かな高みに浮かぶ月に棲まう天女ではない。光輝くなよ竹のように美しい、高貴の姫君でもない。今はただ、愛しい人の腕に抱かれて喜びに涙する、ひとりの女だ。それこそが遥か昔日、初めて地上に降り立った彼女が望んだ、ささやかな幸福だった。
 ──頭上を鳥が掠め飛んでいく。地面を虫が這っている。獣が餌を求めて疾走する。草花が美しい色を湛える。人にとっては当たり前のことかもしれない。けれどはるかな雲上人である彼女にとっては、そのどれもが奇跡のような出来事だった。
 彼と一緒なら、千年前には諦めるしかなかったことを、今度こそ成し遂げられるような気がした。この地に生きることの奇跡、天地【あめつち】の神秘をともに分かち合い、ありきたりの幸せを噛み締めて、ありのままの自分で生きてゆける気がした。
「十五夜の月が出る前に、今度こそお前を見つけなくちゃいけないって思ってたんだ。間に合って、良かった」
「私がまた月に帰っちゃうと思った?」
「ああ。でも、もう帰さないからな。月からの迎えが来たって、構うもんか。俺は絶対に、齧り付いてでもお前を離さないぞ」
「分かってる。私だって、もう離れたくないもん。──ねえ、もっと強く抱いて」
 乞われるままに、少女を胸に掻き抱きながら、少年は夜の帳をおろしつつある空を見上げた。重くたなびく雲の向こうに、うっすらと膨らみかけの月が見えた。地上では季節も自然も生命も、全てが絶え間なく朽ちては生じ、めぐりめぐっていく。千年前に見た景色はもう二度と取り戻せはしない。だが月だけは、遥かな時を経ても同じ姿を留めたまま。淡々と満ち欠けのみを繰り返し、天上から冴え冴えとした光をおとしている。まるでうつろいやすい地上の儚さを嘲笑うかのように、遥かな高みで孤高に浮かんでいるばかりだ。
「俺は何の取り柄もない男だ。頭は悪いし、出来ることといったら畑仕事の手伝いくらいなもんさ。そのうち親父の後を継いだら、朝から晩まで農作業に明け暮れる毎日だな。暮らしは裕福じゃないから、贅沢なんてできやしない。お前とじゃ到底釣り合わないかもしれないぞ。──それでも、お前、俺と一緒になってくれるか?大人になったら、俺の嫁さんになってくれるか?」

 懐かしい童歌を口ずさむ。めぐる季節の目まぐるしさ、終わりない生命の営み、この地がどれほど躍動感に満ちているかを、永遠に記憶に留め置くために。
 いつかまた、故郷に戻る時がやって来るだろう。天の羽衣を身に纏い、飛天達と共に瑞雲に乗って。この地で育んだ人の情け、生きることの喜び、何もかも思い出せなくなる日が訪れるだろう。誰かを愛したことも。人並みの家庭を築いたことも。懸命に田畑を耕したことも。めぐる四季にこの身を置いたことも──。
 遥かな時を生きる天女にとって、すべてはうたかたの夢のようなもの。けれどそれは、決して悲しい夢ではない。魂がいつまでも覚えている、美しくて愛おしい、生命の記憶だ。
 明るく楽しげな童歌は、いつしか単調で哀切を帯びた天女の歌へと変わる。望んで地上に降り立ちながら、頭上に皓々と輝く月を仰がずにはいられないのは、悲しきかな、天人として生まれおちた者の性。
 けれど何度あの月へ引き上げられようとも、同じことだ。

 まつとしきかば、今かへりこむ。

 あなたが待っていてくれるのなら、きっとまた、何度でもこの地へ帰ってきましょう。









×