月の世界



「姫様、何をご覧遊ばしておられるのですか」
 赤い欄干に両手をのせ、うつろな眼差しをした姫は空を見ていた。女官の方を振り向きもせずに、感情のこもらぬ声で問う。
「あの青い星には、何があるのですか」
「あなた様は王の娘御。そのような尊きお方が、かの地について問うことなどあってはなりませぬ」
「何故いけないのです」
「かの地は穢れに満ちております。思いを馳せることすら不浄にございます」
 女官にも姫の美しいかんばせにも表情はない。声にも抑揚はない。極楽浄土に棲む天人にとって、喜怒哀楽は不要のものだった。
「不浄ですか。それでは父上がよい顔をしないでしょう」
「仰るとおりです。以前もかの地のことをお尋ねして、お仕置きを受けられたことをお忘れですか」
「そうでしたね。あれはいつのことだったかしら」
「さあ。ほんの四、五百年前のことにございましょう」
 姫の小さな頭に載った金冠が篝火に照らされてきらきらと輝いている。
 天上にあるこの月の世界には、朝も昼も夜もない。つねに霧がかってほの暗く、かといってすべてが闇というわけでもない。
 この宮殿には月の王と姫が暮らしている。女官達が回廊をゆったりと飛び回り、宮殿の周りを警護する衛兵達は槍を構えたまま微動だにせず、中庭に設えた赤い壇上では楽士達が絶えず楽の音を鳴らし続ける。
 無限の年月を、天人は同じことの繰り返しのなかで生きていく。
「ほんの四、五百年。──されど四、五百年」
 姫はゆっくりとまばたきした。地上をめぐる遥かな時を思うと、感情をもたぬ天人であるはずなのに、長い睫毛に光るものがあった。
「かの地に棲む『人』という生き物は、どれほど生きていられるのでしょうか」
「姫様」
「鳥や虫や獣、草や木や花は、どれほど生きていられるのかしら」
「おやめください。姫様が穢れてしまいます」
「どうして私達天人は歳をとらないのです。永久に枯れることも、死ぬこともない。一体、何故なのですか」
 女官が手に捧げ持っていた薄桃色の領巾【ひれ】を広げ、姫の肩に掛けた。途端に姫は目の色を変えた。口をつぐみ、遥か彼方に見える青い星から興味をなくしたように目を背ける。女官はそっとその白い手を取った。
「まいりましょう、姫様。まもなく宴が始まります」
「そう。今日は何の宴なのかしら」
 女官は能面のように美しい顔で言った。
「此処は楽しいことだけをして過ごす世界。王と姫様にお楽しみいただくための宴にございます」
 ああ。帰りたい──。
 胸の内にふと浮かんだ思いを、姫は決して口にはしない。ああ、またか、と能面の表情を纏ったまま、人知れず押し殺すだけだ。
 女官に伴われて、音も立てずに回廊を渡ってゆく。無上の幸福を奏でるという、月の楽が空気のようにゆったりと辺りをたゆたい、雲上の世界を満たしていた。
 帰りたい。
 今すぐに、この天の羽衣を脱ぎ捨てて。
 けれど一体、どこへ帰るというのだろう?
 紛れもなく私は、この世界の住人。月こそが私の愛すべき故郷だというのに。
 他にゆける場所など、どこにもないはずなのに。




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