When the star falls (学校のカイダン/彗ツバ)


Short stories

- 1 -

「まずい」
 飲みかけのクリームソーダをストローで吸い上げながら、彗は眉をしかめる。
「アイスは溶けてるし、すっかり薄くなってる。味気ない」
 すっかり飲む気が失せたらしく、ストローでクリームにまみれた氷をつついておもちゃのように遊んでいる彼。それを見ながらツバメは唇を尖らせた。クリームソーダが飲みたいから用意して来い、とこき使われたのは彼女なのだ。せっかく作ってやったのにこの天邪鬼ときたらこの有様である。
「まずいなら飲まなければいいじゃないですか。だいたい、あなたがいつまでもおしゃべりしてるから溶けちゃったんでしょ」
「何を怒ってるんだ?」
「別に怒ってません」
「怒ってるじゃないか。ほら、これやるから機嫌直せ」
 にっこりと笑いながら汗をかいたグラスを差し出してくる彼。悪意があるのやらないのやら。
「要りませんよ。なんかどろどろしてるし」
「遠慮するなって。喉が渇いたんじゃないのか?」
「お気遣いどうも。喉なんてちっとも渇いてませんから」
 ツバメがツンとそっぽを向いた瞬間、彗はふ、とあるかなしかの微笑みを見せた。少女のあどけなさを目の当たりにしてついこぼれてしまうその表情。その優しさに彼女はまだ気付かない。
「……どうせなら、うまいクリームソーダが飲みたいな」
 頬杖をついて思案顔をする彼。ちらりと彼女を一瞥すると、やはりその言葉の意味は分かっていないらしい。まずいソーダへの単なるあてつけと取ったようで、ふくれっ面をしている。
「だったらお洒落なカフェにでも行ってきたらどうですか?素人の作るソーダなんかより、よっぽどおいしいでしょうから」
 ああ、と思わず彗は頭を抱えたくなる。なぜこの子はこんなに鈍感なのだろう。言外の意味をとるという行為を知らないのだろうか。
「とんだ薄情者だな。僕一人で行けっていうのか?」
 拗ねたように言ってやれば、少女はぽかんと間の抜けた顔を向けてきた。それってつまり──。呟いたきり、慎重な顔つきになって口を閉ざしてしまう。
 つねに言葉に取り巻かれて生きている彼にとって、こういう終わりの見えない沈黙は居心地の悪いものでしかない。とはいえ、自分から決定的な誘い文句を口にすることもはばかられる。相手の反応に一喜一憂するのは彼とて同じだ。どうしたらいいだろう。どうにもならない板挟みに焦れていると、好都合なことにツバメの方から口火を切ってくれた。
「……あの。車椅子なら、私が押してあげましょうか?」
 渡りに船。たまには飲み込みが早いじゃないか。あからさまに嬉しそうな顔をしないように、緩みかけた頬を引き締めた。
「なーるほど。お前なら適任だな」
「なんで上から目線なんですか?」
「まあ細かいことは気にするな。よし、今日はお前の献身に報いるためにも、この僕が奢ってあげよう」
 堪えきれずについ口笛を吹いてしまう。やけに上機嫌ですね、と天然な彼女は不思議そうにした。しまいには、何か企んでるんじゃないですかと疑念の眼差しまで向けてくる始末。だが今の彼はすこぶる気分がいいので、そういう失礼な態度も鷹揚に受け流してやることにする。腕時計をちらりと見下ろしながら、
「まだ開いてるな。駅前のカフェに行こうか。あそこのケーキはなかなかいけるぞ」
「えっ、そうなんですか?」
「ショートケーキにガトーショコラにチーズケーキ。今日は、好きなだけ頼んでもいいよ」
 だから生徒会長さん。
 僕と一緒に、おいしいソーダを飲みに行こう。


- 2 -

「言っておきますけど、義理ですから」
「ふーん?」
「なんですかその目は!」
 彗は両手を合わせて口元に持っていき、半月型に目を細めてツバメを見上げた。人間観察をする時の体勢だ。今しがた彼女に手ずから渡された小さな箱は、まだ開けずにデスクの上に置いてある。
「別に気を遣わなくても良かったんだぞ。僕はバレンタインなどというコマーシャリズムを体現化したかのようなくだらない行事には、微塵も興味はないんでね」
 相も変わらず憎まれ口はお手のもの。だがツバメもツバメでかなり耐性がついたらしく、これくらいの毒を吐いても即座に身構えたりはしなくなった。
「思った通りの反応。あなたみたいな天邪鬼が、素直にありがとうって受け取るはずがないですよね」
 行動を読まれていたと思うと少し悔しい。彗は片眉を持ち上げ、肩を竦めてみせる。悪戯心が起きたのか、ツバメも真似をしてそっくり同じ動きをして見せた。考えるより先に口が動く。
「お前はサルか?今からでも遅くない、ツバメからサル子に改名したらどうだ?」
「サル子なんて悪趣味な名前、絶対に嫌です!」
 そんなことを言いつつも舌を突き出したりして、ツバメはどこか楽しげだ。もう少し怒るのかと予想していただけに彗は拍子抜けした。せっかくくれたチョコレートをないがしろにしても、軽く流してむしろ冗談で返してくるこの余裕ぶり。
 優れた観察眼が結論を出す。どうやらこれが心をこめた本命チョコでないことは確実のようだ。期待していたわけではないが、いざ現実を目の当たりにすると心にぐさりと刺さるものを感じる。思わず溜息が出た。
「いらないなら返してくださいよ。もったいないから、自分で食べます」
 いつまでも箱に触れようとさえしない彼にしびれを切らしたのだろう。ツバメが取り返そうとして手を伸ばしてきたので、彗は咄嗟にそれを取り上げた。本命チョコではないからといって、いらないわけではないのだ。繊細な男心がまるで分かっていない。
「僕の手に渡った時点で、これはもう僕のものだ」
「でも、いらないんですよね?バレンタインなんて興味ないんでしょ?」
「バレンタインには、な」
 含みを持たせた物言いにもツバメはまったく気付かず、あげるんじゃなかっただのなんだのとぶつぶつ言っている。それをしり目に彼は小箱にかけられた赤いリボンを解いてみる。箱の中に等間隔に並べられたいびつな形のトリュフから、甘ったるいチョコレートの匂いが香った。一粒つまんで、口の中にぽいとほうり込む。今まで食べたどのチョコレートよりも甘く感じた。
 バレンタイン自体に興味はない。チョコレートにも頓着はない。何よりの関心事は、目の前で不機嫌な表情をしている少女のその心。
 あのプラチナの男子には渡したことがあるのだろうか。彼を思いながら、心のこもった本命チョコを作ったこともあったのだろうか。彼に出会うまでは人一倍内向的だった彼女にそんな度胸はなかっただろうことは容易に予想がつく。それでも、とろけるような声であの男子の名を呼び、憧憬の眼差しで彼を見つめ、本命チョコを渡すツバメの姿を想像するだけで頭と心がすっと冷えた。
 舌の上で転がすチョコレートの味が変わった。甘ったるさが消え、ただただ苦い。それでももうひとつのトリュフをつまみとる。やはり苦かった。報われない恋の味など知りたくもなかった。けれど無味乾燥な孤独を舐めているよりはずっと甘美で、ますますのめり込んでしまいそうな予感がした。
「しかめっ面は癖になりますよ?不味いなら不味いって言えばいいのに」
 ツバメが彼の眉間に人差し指を当ててくる。誰のせいでこんなしけた顔をしてると思ってる、と小言のひとつも言ってやりたくなるが、それはただの八つ当たりだと分かっている。だから道化のように、にっこりと笑って一言。
「まあまあの味、だな」


- 3 -

 彼女が誰かと歩いている。それを背後から見つめている。
 誰かと手を繋いで公園を横切りながら、楽しそうにしているツバメ。私服を着ていることから放課後ではなく、休日に会っているようだ。黒いパーカーのフードを被っているせいで青年の顔は分からない。だが隣の青年をしきりに見上げるツバメの表情から、すっかり打ち解けて甘えている様子が窺える。
 ツバメはとりとめもない話をする。時に身振りを加えて表情も豊かに。青年は時々頷いて相槌をうちながら、黙って聞いている。彼女が彼の顔を覗き込んで何かをたずねる。期待を込めた眼差し。彼は答える代わりに、繋いだ手に力をこめたのだろう。ツバメがそれを見下ろしてはにかんだ。
 彼女の両腕が青年の腕に絡まる。ちょうどバス停を通り過ぎた辺りで二人の足が止まる。小首を傾げて見下ろしてくる彼に、悪戯っ子のような目をして笑う彼女。大好きです、と言ったのが確かに聞こえた。青年のポケットに入れていたもう片方の手がそっとツバメの頬に触れる。顎にかけての輪郭をなぞるようにしている。
 そのまま二人の顔が近づいていくのを見たくなくて、声をかぎりに彼女の名を呼んだ。腰を屈めた青年がゆっくりとこちらを向いた。鼻先まで深く被ったフードに隠れているが、形のいい口元が勝ち誇ったような笑みをたたえている。
「悪いな。この子はお前のものにはならない、絶対に」
声なき冷笑を浮かべる青年。思わず立ち上がりかけて、脚がまったく動かないことに気付く。ツバメはこちらを振り向きもせず、黙って彼の腕に頭をあずけている。いとおしげにその頭を撫でる彼。その頭からフードがすとんと落ちる。あらわになったその横顔は──
「……さん、雫井彗さん!」
 はっと目を開けると視界がツバメの顔をとらえた。何かを掴み取るように虚空に伸ばした手を、彼女の両手がしっかりと握り締めている。どちらが夢でどちらがうつつなのか。頭がぼんやりとしている。
「どうしたんですか?すごく魘されましたけど。……汗、かいてるし」
 臙脂のブレザーのポケットからハンカチを取り出して、額を拭こうと手を伸ばしてくるツバメ。その白い手首を、思わず掴んで確かめてしまう。
「雫井さん?」
 動揺するツバメに構わずに、まずは深呼吸した。
 掴み取ったその感触は確かに本物だった。血の通ったあたたかい彼女の手首。大丈夫、これは現実だ。夢じゃないんだ。自分に繰り返し言い聞かせる。
「少し落ち着いたみたいですね。ああ、良かった」
 まるで自分のことのように安堵した表情を見せるツバメ。その顔を見上げながら、これ以上の幸せってあるだろうかと、誰あろう自分自身に問い掛けた。
 ──今度からはもう少し優しくなるよ。意地悪なことはなるべく言わないようにする。言葉にはじゅうぶんに気をつける。愛想をつかされないように。
 ひそかに胸の裡で決意した。そして、傍にいてくれてありがとう、と言いかけた時、
「そろそろ行きますね。公園で彼が待っているから──」


- 4 -

 星を見に行こう、と唐突に彼がメールで誘いを持ちかけてきた。ツバメが夕ご飯と風呂を終え、愛猫のオードリーと戯れている最中のことだ。時計を見ると八時を過ぎており、今から外出する気分はとても起きそうにもなかった。猫の肉球をいじりながら考えあぐねていると、風呂上がりらしい祖父がひょっこりと部屋に顔を出す。
「おうツバメ。こんな夜更けにコレとデートとは、いいご身分じゃねえか」
 ピッと指を立ててにやけ顔の祖父。まさかと思いあわてて表に出てみると、案の定、ひっそりと静まり返った夜の商店街の闇にまぎれるようにして、メールの送り主である雫井彗がそこにいた。
「まだ返事はしてませんけど?」
 仁王立ちになるツバメを見上げて彗はくくっと喉を鳴らし笑う。
「僕が選択肢を与えたか?四の五の言ってないで、さっさと行くぞ」
 くるりと車椅子の向きを変える彼。ちょっと待った、おじいちゃんに話してこないと、とツバメは言いかけるが彼が途中で遮った。
「話ならもうつけておいたぞ。お前のじいさんから許可はもらってる。少々誤解を招いたようだが、まあ大した問題じゃない」
 先ほど彼女の祖父がそうしたように、指をピッと立てる彗。どんな誤解かは容易に見当がつくので、帰ってからのことを思うと今から胃が痛くなるツバメだった。
 月の光と街灯を頼りに、車椅子を押して歩く夜道。風はまだ冷たくて思わず身震いしてしまうが、胸いっぱいに吸い込む夜気は清々しい。ふと気付くと、前を向いていたはずの彗が首をひねってじっとツバメを見上げていた。
「何ですか?」
「──匂い」
「え?」
「石鹸の匂いがする」
 ああ、とツバメはドライヤーで乾かしたての髪に触れる。
「お風呂上がりだったんです。湯冷めしちゃったら、あなたのせいですよ?」
 何気ない軽口にもかかわらず、彗は気にしたようだった。自分が着ていた黒のパーカーを脱ぐと、無言でツバメに差し出してくる。意外な行動だった。悪いことを言ってしまったような気がして、お人好しの彼女は眉を八の字に下げる。
「いいですよ。私なら大丈夫ですから」
「人の好意は無碍にするものじゃないぞ」
「だって、あなたが風邪引いちゃうかも」
「こう見えても丈夫な方だ。病院には滅多に行かない」
 有無を言わさぬ視線に圧されて、渋々ながら彼のパーカーを受け取るツバメ。とはいえどうしたものかと途方に暮れていると、もどかしそうに彗がそれを奪い取った。
「じれったいな。さっさと着ればいいじゃないか」
 ぱっと広げられたパーカーが、ツバメの肩と背中を包み込んだ。おそるおそる袖を通してみると案の定ぶかぶかで、手首がだらりと垂れてしまう。彗は満足気な顔をして、フードも被ってみろと仕草で促してくる。言われた通りにしてみると、フードもやはり大きいようで鼻先まですっぽりと隠れてしまった。そのまま鼻から空気を吸い込む。古い洋書と暖炉の薪の匂いがする、ような気がした。そしてその匂いに自然と心が落ち着いた──そんな気もしていた。
「あ、流れ星だ」
 のんびりとした彗の声にツバメはあわてて夜空を振り仰ぐ。彼の指が示す先、ゆっくりと満ちていく上弦の月の、そのまわりに小さな星が宝石を砕いた粉のように散らばっている。けれど尾を引いて流れる帚星はどこにも見当たらなかった。一足遅かったらしい。
「あなたは何をお願いしたんですか?」
「ん?とりとめもない願い事」
「教えてくれないんですか?」
「ああ。人に教えたら叶わなくなるかもしれないだろ?」
 ──もう一度、流れ星が現れますように。今度はこの子が空を見上げている間に。
 彼の心に真っ先に浮かんだ願いがそれだった。
 けれど彗は言わない。だからツバメは知らない。彼女がフードに視界を遮られている間に、星の名を持つ彼が流れ星にどんな願いを捧げたのかを。
「双眼鏡、貸してやろうか?ずっと空を見ていれば、今度こそ見つけられるかもしれないぞ」
「あ、そうですよね!よし、今度こそはっ」
ツバメは躍起になってレンズ越しの星空に目を凝らした。夜空ではなく、そんな彼女の顔を見て微笑む彼の姿がかたわらにあった。


- 5 -

 せわしなく行き交う人々の喧騒を縫って、アナウンスが聞こえてくる。じっと耳をすませていると、最後の方で搭乗便名が読み上げられた。そろそろゲートへ行かなければ。スーツケースの取っ手を掴みかけて、二の腕にそっと触れた手に止められる。隣に座ったツバメが大きな瞳で真っ直ぐに彼を見つめていた。
「本当に、行ってしまうんですか」
「どうした。今更、僕のことが恋しくなったか?」
 あまりにも純粋で綺麗な目をしているので、直視できない。わずかに視線を逸らしながら茶化してみる。そんなわけないじゃないですか。そうしていつものようにむきになって否定してくれればいいと思うのに、返ってきたのは嘘偽りのない思いだった。
「──きっと寂しくなります。あなたがいなくなったら」
 どうして別れる間際になって、この子はこんな表情をするのだろう。目に溜めた涙をこぼさないように、瞬きひとつせずじっと彼を見つめている。つぶらな瞳と泣き出しそうな顔が、かすかに震える華奢な肩が、二の腕に添えられた手が。脇目も振らずに腕の中に閉じ込めてしまいたくなるほど愛おしい。なのにただ見つめ返すことしかできないもどかしさに、胸を掻きむしりたくなる。
 日本を離れると告げた時、ツバメは驚いた顔はしていたが悲しんでいるようには見えなかった。彗が荷造りをする間も、いつもと変わらずに放課後になるとひょっこり訪ねてきた。このままでは彼の方が別れがつらくなると思い、もう来るなと言って冷たく突き放した。それでもめげずに彼の目の前に現れ続けた。少しずつ家から物が消えていき、洋書のぎっしりと詰まった本棚が、彗の使っていた長いデスクが、そしてツバメの定位置だった肘掛椅子がなくなり、暖炉から火が消え、ついには空き家同然になるまで。毎日欠かさずに彼女は彼の屋敷を訪ねてきた。
 見送りをしたい、と言われた時は心底驚いた。喜んでいいものか正直なところ判然としなかった。ただでさえ別れが心苦しいのに、見送りなどされたらますますつらくなることは目に見えていた。それでも断ることはできなかった。別れの苦しみをどうにか避けたいと思う反面、最後の最後までその姿を目に焼き付けていたいと望む気持ちもまた、まぎれもなく彼の本心だった。
「ねえ、どうしても行かなくちゃいけないんですか?」
 ツバメの眼差しは切実だった。まるで欲しいものをねだる子供のようだ。
「行かなくたっていいじゃない。今までみたいに、仕事ならきっと日本でもできるよ。もし助けが必要なら、私がいつだってあなたの足になる。どんな無理難題も、我儘も聞いてあげる」
 彗はそっと睫毛を伏せる。
「──仕事の都合上、移住した方がいいと前から思ってた。色々と区切りもついたことだし、今が潮時だと思う」
本心は少し違っていた。彼はただ単に、自由になりたかったのだ。
 健気で真っ直ぐな少女に、坂道を転げるようにあっという間に恋に落ちた。思いが深まるにつれて悩みが増えた。もう少し早く出会えていれば、正面から向き合えたかもしれないのに。脚が思うように動いたなら、すぐに駆け付けることができるのに──。過去の闇が呪縛であったように、この恋もまた支配なのだと思い知った。
 もう二度と、何にも縛られたくはなかった。
 これ以上心を許してしまえば、自分が自分でなくなるようで空恐ろしい。いつの日か、恋に溺れる愚か者になったその代償に、頭の中の膨大な辞書が全て白紙になってしまいそうな気がした。現にこれまでも、何度かそうなりかけた時があった。怖かった。言葉をなくしてしまえば自分には何の値打ちもない。彼女の前に立つ資格すらない。そうなって途方に暮れることを想像すると、ただただ怖かった。
 何も知らないツバメは、そうですか、と気丈に頷いている。突き放されたと思っているのだろう。だがそれでいい。
「なあお前、僕のことなんかさっさと忘れろよ。早く大人になって、いい人を見つけるんだな」
 彼女には前を向いていてほしかった。後ろを振り向かずに階段を上り続けてほしかった。過去は過ぎ去ればやがては忘れていくもの。この子はまだ十六、七の少女なのだ。未知の出会いに胸躍らせ、希望を抱いてほしかった。
 ベンチのシートから車椅子に移る。すかさず遠くで控えていたグランドスタッフが駆け付けてきて、スーツケースをお持ちしますと言った。先に行かせて、彗は彼女を振り返る。置き去りにされた子犬のような顔。もう、おちょくる気力すら起きない。
「最後に握手のひとつでもしておこうか。春菜ツバメさん」
 心引き裂かれるような思いがする。それでも手を差し出した。大人なら大人らしく、潔い最後を迎えるべきだ。だからこれをかぎりに諦めよう、と思った。
 けれど彼女は、いやです、と首を振る。
「これが最後の握手なら、しません。絶対に」
 臆病者の彼女が内に秘める、凛とした声だった。
「私、大人になります。高校を卒業して、大学に行ってちゃんと勉強して。早く大人になって、あなたに追いつきます。──会いに行きます。あなたが何の前触れもなく私の前に現れたように。いつかあなたが私のことを忘れた頃に、今度は私が」
 臙脂のブレザー。襟元に光る生徒会長バッジ。普段は頼りなさげなのに、ここぞという時に芯の強さを見せる声。真っ直ぐな瞳。忘れることはできないと分かっている。だからこそ気持ちの区切りを付けようとしているのに。
「お前が大人になるまでだって?──僕は気が短いんだ。のろまなお前を待てると思うか?」
 こんな時にも憎まれ口しか出てこない。それでも笑顔で返してくる彼女のほうが、よほど大人と言えそうだった。
「待っていて、なんて言いません。待っていてもらえなくても、勝手に押しかけていくつもりですから」
 こういう押しの強さはあなたが教えてくれたんですよ、と。きれいな涙を流しながら笑うツバメ。
やるせなかった。そんな夢みたいなことは、どれほど望んでも決して起こらないと分かっていた。まだ子供でしかない彼女は知らないのだ。自分がまだ人生の階段を上り始めたばかりで、これから数え切れないほどたくさんの出会いが待っていることを。会うは別れの始まり。こうして二人が出会ったことも、長い階段を上るツバメにとってはきっと、たくさんある通過点のうちの一つでしかない。だからここで離れなければならないというのに。
「──今はそんなこと言ってるけどな。きっとお前、僕のことなんてすぐに忘れるぞ。きっと明日には、ケロッとした顔で食堂のステーキ膳でも食ってるに違いない」
「そんなこと、ないです」
「今に見てろ。おとぎ話に出てくるみたいな、白馬にまたがった優しい王子様がお前の目の前に現れるんだ。そして手を差し伸べてくる。想像してみろよ。かたや車椅子に乗った偏屈者。お前はどちらの手を取る?比べてみるまでもないだろ?」
 ツバメは頷く。その答えに、愕然とした。
「私ならきっと、車椅子に乗った偏屈者を選びます」
 だからお願い魔法使いさん。最後だなんて、どうか言わないで。これで魔法を終わりにしないで──。
 もう限界だった。離れようとすればするほど、否応がなしに手繰り寄せられる。頑なになればなるほど心を揺さぶられる。どんなに足掻いても、もう逃げられない。
「──次に僕の前に現れる時は、覚悟しておくんだな」
 その時にはもう絶対に、何があっても離してやらないぞ。宣戦布告のように言ってやれば、望むところですよと、彼女は涙を拭いながら言い返してきた。
「メール、送りますね」
「あまり期待せずに待ってるよ」
「いっぱいいっぱい、送りますから」
「……そうか。じゃあ、楽しみに待ってる」
 さり気なく言い直す彗に、ツバメは鈴を鳴らすような声で笑う。どこで何をしていても、ずっとそうして笑っていてほしい、と。そんなことを彼は思った。
「お返事くださいね。待ってますから」

 そして繋いだ手を、離した。ほどけた指を握り締めながら、彗はふと、これが最後かもしれないという予感を抱く。口約束ほど不確かなものはないと知っている。人の心がどれほど移ろいやすいものなのかも。決してツバメを信じていないということではない。それが自然の成り行きなのだという覚悟であり、諦めにも似た思いだった。だからたとえツバメがこの先自分を忘れてしまっても、恨むことは絶対にしないと固く誓う。いつかメールがふつりと途絶えたとしても。待てど暮らせどあの子が会いに来なかったとしても。それはツバメのせいではなく、彼女の前に長々と果てしなく続く階段が見せた、幻のせい。今この瞬間がすべてなのだと、この瞬間に抱く想いがこの先も永遠に続くのだと、彼女にそう錯覚させた幻のせいだ──。
 振り向けば、まだちぎれんばかりに手を振っているツバメがいる。振り返そうとして、結局は上げかけた手をおろした。後ろ髪を引かれる思いがする。それでも彼はひと思いに搭乗ゲートをくぐり抜けた。そうして彼女の視界から忽然と、おそらくは永遠に消え去った。

 さようならシンデレラ。魔法はもう、これでおしまいだ。





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