So close, yet so far away (学校のカイダン/彗ツバ)


 

 鞄を胸に抱えたツバメは物陰に隠れてそっと中の様子を窺っていた。その書斎はいつものごとく照明の明かりで赤々と染まっており、真ん中に置かれたデスクには邸の主人である雫井彗が向かっている。彼は電話で誰かと話をしており、今日もまた定刻通りに訪ねてきた来客に気付く様子はない。パソコンのキーを打つ指は話している間も一瞬たりとも止まることはなく、電話越しの相手に向ける言葉もよどみがない。母国語を話しているようにしか聴こえないほど流暢な英語だった。英語の成績が思わしくないツバメには彼が話している内容など到底聞き取れないが、抑揚のない淡々とした声の調子から、きっと仕事関係の電話に違いないとあたりをつけていた。
 ようやく電話が切れたかと思うと、彗が受話器を置いてすぐにまた着信音が鳴った。彗はすぐさま応答したが、すぐに別の言語ですらすらと喋り出す。これも訛りを感じさせない見事な発音だった。ツバメはじっと耳をすませるが、悔しいことに、今度ばかりはどこの国の言葉を話しているのか皆目見当がつかなかった。そうこうしているうちに彗はまた止まることを知らない自転車のように受話器越しの相手に語りかけ、高速でパソコンのキーを打つ。しばらく単調に問答を繰り返していたが、やがてもう片方の手も必要になったらしい。受話器を肩と耳とで挟むようにすると、空いた手でペンを取り、片方でキーを打ちながらもう片方でメモを取るという神業をやってのけた。何て器用な人なのだろう、とツバメはつい目を瞠ってしまう。
 パソコンの液晶画面に釘付けの彗は、ツバメが見たことのないほど真剣な表情をしていた。相手の一言一句に神経を研ぎ澄まし、自分の口から出ていく言葉にも細心の注意を払い、一瞬たりとも気を抜くことはない。呼吸にもキーを打つ指にも、一糸の乱れすらない。そこにはいつもツバメを面白可笑しくからかっている、あの幼稚な青年の面影はなかった。ただただ、自らに非情になって与えられた仕事に徹する、天才スピーチライターの姿だけがあった。
 たて続けにかかってきた電話から解放されると、彗は長い溜息をついた。天井をあおぎ、疲れたように両目の間を指でほぐす。ツバメはしばらくそんな彼を眺めていたが、今日はもうこのまま帰ろうかという気がしていた。困憊した彼に声をかけて邪魔をするのは、どうもはばかられた。
 ──プラチナの人達がまた皆を困らせていて。私、どうしたらいいんでしょう。
 ツバメにとっては確かに一大事だ。だが、それは彗にとってはほんの瑣末なことでしかない。少なくとも、世界中のあらゆる要人に求められる存在が、貴重な労力と時間を割いてまで気にするべき事柄ではない。気の遠くなるような大金を積んでまで、天才と謳われる彼の「言葉」を得ようとする人々がいるのだ。なのに、こんなちっぽけな女子高生ひとりに泣きべそをかかれて、一円の得にもならない人助けを強いられている。それがどれほど理不尽なことか。考えたことすらなかった。
 ──この人は、案外近くて遠い人なのかもしれない。
 そんなことを思ってしまった。
 そして一旦気付いてしまうと、当たり前のように過ごしてきた日常がまるで、砂上の城のようにもろいものに思えた。
 ツバメはやるせない気持ちでローファーのつま先を見下ろす。なぜだかじわじわと泣きたい衝動がこみ上げてくる。
「お前に覗き見の趣味があったとはな」
 突然掛けられた言葉に、飛び上がりそうになった。そろりと覗いてみると、彗がデスクに頬杖をついて彼女を見つめていた。
「入るのか入らないのか、どっちかにしたらどうだ?」
 ツバメは苦虫を噛んだような顔をする。彗が「ん?」と不思議そうに片眉を持ち上げる。普段なら断りもなしに勝手に上がり込んでくる彼女が、今日は彼の方から呼んでも躊躇するそぶりを見せたので違和感を覚えたのだろう。
「どうした。具合でも悪いのか」
 声の調子がぐっと和らぐ。意地悪なことばかり言う割には、こうして時々見せる気配りが優しくて、ツバメは戸惑ってしまう。
「腹でも壊したか?元気がないぞ」
 ゆっくりと車椅子を動かして彗が近付いてくる。ツバメは逃げ出したい衝動に駆られるが、思いに反して足は動こうとしない。今逃げてしまえば、彼はきっと追いかけてくるだろう。そして必ず逃げた理由を問い詰められる。うまく乗り切れる自信がなかった。
 俯くツバメの顔を彗が下から覗き込んできた。本当に具合が悪いと思い込んでいるのだろう。気遣わしげな表情をしている。手が伸びてきて、ツバメの前髪をかきあげた。あらわになった彼女の額に彼が自分の手をあてる。ひやりと冷たい。次にその手を自分の額に持っていった。熱はないな、と安堵したように頷く彼。
「でも顔色が良くないな。少し疲れているんじゃないか?生徒会長の仕事も、楽じゃないからな」
 ツバメの中で何かがふつりと切れた。ぎりぎりまでこらえていたはずの涙が、堰を切ったようにあふれだして、ぱたぱたと彗の頬に落ちた。
「あっ……」
 彗は唇を薄く開けたまま、ツバメの泣き顔を見上げている。驚いた様子だ。余計な心配をかけたくなかった。ツバメは声を詰まらせる。
「な、なんでもないんです。なんでも──」
「そんな、見え透いた嘘。──僕に通じると思うか?」
 パーカーのポケットの中から彼の手が伸びてきた。ツバメはびくりと肩を震わせる。大丈夫。雛鳥をあやすような彗の囁きに、ますます涙が止まらなくなった。長い指が彼女の頬から涙をすくいとる。ツバメは子供のように泣きじゃくる。戸惑いも悲しみも、すべて受け止めてくれるかのような優しい仕草だった。
「相変わらず泣き虫なんだな。お前は」
 だって、あなたがどこかへ行ってしまいそうなんだもの。
 近くにいても、こんなに遠いんだもの。
 言えなかった。言ってしまえば、本当に手の届かないところへ消えてしまいそうな気がした。



 言葉はひとを支配するための道具だ。
 過去に深い闇を落とした経験が、彼にそう教えてくれた。ヒエラルキーの頂点に立つには、言葉の力でもって大衆の心を惹きつけなければならないのだと。
 以来彼は読書に没頭した。かつて預言者と呼ばれた人物や、散り散りの国々を一つにまとめた大王、世界を変え、権力の頂点に立った彼らが、どのような言葉を人々に伝え、それがどのように後世に語り継がれているのか。古今東西、様々な権力者にまつわる本を手に取り、そのエッセンスを頭に叩き込んだ。
 今や彼は言葉を操ることにかけては誰にも負けない自信がある。その天才的な才能を求め、世界中から依頼が殺到する日々。やりがいはあるし、見返りも十分すぎるほど豊富だ。彼はこの仕事を天職だと思っている。
 彼にはひとの心理が手に取るように分かる。些細な言葉遣いの変化で、そのひとの心理がどう揺れ動くのかまでも予想することができる。だから彼にとって、ひとを操ることは容易いこと。ある国の政治家が国民にどのような演説をすれば国民の支持を得られるのか。ある企業のCEOがどのような謳い文句で新商品をプレゼンすれば売れるのか。もはや先人達の知識を借りなくとも、彼自身の頭脳が的確な言葉を紡ぎ出してくれる。クライアントである政治家やCEOはその言葉を使い、あとは彼が想像した通りのシナリオで舞台は幕を下ろすというわけだ。
 そして、一国の国民感情や、世界にまたがる大企業の顧客心理を手玉に取ることのできる彼が、たかがひとつの高校の集団心理を掌握できないはずがない。
 長らく探していたスケープゴートがようやく見つかり、明蘭学園征服計画は順調に進んでいった。ごく一部の「特権階級」にある傲慢な生徒達の鼻っ柱をへし折り、保身にばかり気を揉む無能な教師達に灸を据えてやり、しだいに大多数の支持を掴み取っていく。そしてヒエラルキーを根本から覆してやったあかつきには、彼自身が晴れてここの呪縛から解き放たれる。自由の身となって、どこにでも望むままに行ける。
 すべてはシナリオ通りだった──はずだった。
 少しずつ、少しずつ、不協和音が生じ始めたのはいつからだっただろう。
 彗は傍らで眠る自分のスケープゴートを見つめている。少女は泣きつかれたのか、いつもの安楽椅子に丸まって微動だにしない。帰宅が遅れれば彼女の祖父が心配すると思い、送っていくかと持ちかけてみたが、ここにいると落ち着くからと言って聞かなかった。
「──もう少しだけ、ここにいさせてください。気が楽になったら、すぐに帰りますから」
 消え入るような声だった。普段はあれだけ威勢が良くて生意気な小娘が、今日はやけにしおらしかった。だから無理には帰せなかった。
 いや、彼が帰したくなかったのだ。
 突然流した涙の理由を知りたかった。悲しみにくれた瞳に問いかけたかった。何がそれほど彼女の心を痛めているのか。そのつらさを癒すために、自分に何か出来ることはあるのか。
 たかが生贄の子羊にこうして情を寄せることになろうとは、予想だにしなかった。
 今まで大抵のことはシナリオ通りに進んだ。時にクライアントが勝手な行動を取るおかげで軌道からはずれることはあっても、そのつど臨機応変に対応すればそうそう大事には至らなかった。彼には言葉という無比の武器があった。言葉は剣であり、銃であり、爆弾であり、また恰好の盾でもあった。
 その彼が涙を流すちっぽけな少女を前に、ただ途方に暮れていた。唯一無二の武器を使うこともできず、戸惑うばかりだった。彼女の、春菜ツバメの流した涙に、頭のねじが完全に動きを止めた。頭の中に蓄えた膨大な数の辞書をめくろうとしても、すべて白紙でしかなかった。
 言葉が見つからなかった。一言一句、本当に何も出てこなかった。こんなことは、いまだかつてなかった。
「相変わらず泣き虫なんだな。お前は」
 そんな月並みのくだらない言葉しか、言えなかった。慰めにも憂さ晴らしにもなりはしない、つまらない独り言。
「──くそ。もどかしいな」
 彗は後ろ頭を掻く。目の前にツバメの寝顔がある。白い頬にまだ涙のあとが残っている。ツバメが眠ったことで、ようやく頭の回転が平静を取り戻しつつあった。彼はツバメの膝の上に置かれた手に自分の手をかぶせ、先程までの彼女の様子を冷静に分析してみることにする。
 クライアントとの電話中、ずっと彼女の気配を感じていた。こちらの様子を窺っているのが分かった。早く声をかけてやろうと思うと、いつも以上に頭脳が冴え渡った。順調に一つ目の案件を終え、ようやく彼女を呼び寄せられると思った矢先にまた電話が入った。苛立ちはしたがこちらもそつなく対応した。その間もツバメは隅でじっと大人しくしていた。このまま帰ってしまいはしないかとハラハラするあまり、早く終わらせなければと急いて、またも頭がフル稼働した。
 電話を切ると、疲れがどっと押し寄せた。ツバメはまだそこにいた。なかなか出てくる様子がないので、彼の方から声をかけてみた。すると彼女はなんとも微妙な顔をした。電話が終わるのを待っていたはずなのに、なぜか彼に呼ばれたことに驚いていた。躊躇する素振りさえ見せた。ひょっとすると、話しにくい話題を打ち明けようとしていたのだろうか。
 彼の頭の中で予感めいたものがはたらいた。
 自分に話しにくいこととは、恋の話題かもしれない。いつもからかわれてばかりいるせいで、今回もおちょくられると思ったのか。傷を抉られることを恐れたのか──。
 彗はそっと睫毛を伏せる。
 悲しみにくれたツバメの目が脳裏にくっきりと焼き付いている。あれは喪失の眼差し──おそらくは失恋をした者の目だろう。相手は分かっている。特権階級に属する生徒の中の、特に目付きの悪い長身の男子だ。あの男のことがずっと好きだったのだと、彼女は言っていた。
 では、何と声をかけてやれば良かったのだろう。
 言葉を操ることにかけては天才の青年は、頭の中の辞書をめくりながら、少女の手を知らず握り締めている。
 ──つらいことを言われたのか。傷つけられたのか。酷い奴だな。悔しいなら僕が仕返ししてやろうか。お前の代わりにそいつを懲らしめてやろうか。
「違う」
 違う、違う、違う。そういう陳腐な慰め文句なら誰にでも言えるではないか。それに仕返しなどという不毛で卑怯な行いを彼女は決して望まない。それをあえて望んでいるのは、彼自身だ。
 これは、ただの嫉妬だ。
 分かっている。春菜ツバメが好きだったという男を、自分は心底妬み嫉んでいる。
 彼女の純粋な心を踏みにじったあの男など、さっさと地獄に落ちてしまえばいいと思っている。反面、あの男が彼女を得ようとしなかったことに、彼女がいまあの男の隣を歩いていないことに、自分には決して見せない甘い笑顔をこぼしていないことに、どうしようもなく安堵を覚えてしまう愚かな自分がいる──。
「厄介なスケープゴートだよ、本当に」
 ふ、と肩を落として笑う彼。いっそのこと本当にただの生贄の子羊だと思うことができたなら、非情に徹することができたなら、どれだけ楽になれることだろう。
 握り締めた彼女の手を、彗は口もとまで持ち上げる。ツバメが眠っていて分からないのをいいことに、白い手のひらにそっと唇を押し当てた。触れてはいけない存在に触れてしまった背徳感に、思わず背すじが震える。が、すぐに頭が冴えた。これくらいの意趣返ししかできない自分がひどく臆病に思えていやになる。しかし、例えば唇を奪ったところで、その心を得られないのなら一体何の意味があるだろう。この少女は自分のものには決してならないのだ。どんな言葉を使ってからめとろうとしても、私情が入ってしまうかぎりそれは完璧ではない。相手の心理が読めない以上、完璧なシナリオなど完成しない。恋は盲目というが、その通りなのだと身をもって知る。
 ──この子は、近くて遠い存在。
 その心を完全に読みきることなど、到底出来そうにもない。
 いつか巣立っていくこの子を、自分はどんな顔をして見送るのだろう。あるいはその背を見たくなくて、先に逃げ出してしまうだろうか。
 彗は両手で包み込んだツバメの手を、祈るように額にあてる。
 暖炉のマントルピースに置いてある時計が、じきに彼女の帰る時間を告げる。あと少しだけ、もう少しの間だけ、この寝顔を自分だけのものにしていたかった。






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