宿り木の下



 
 八百万の神々の訪れる湯屋・油屋の帳場役は今、私用で不思議の街を離れ、トンネルの向こうの人間界にいた。
 恋人の千尋が買い物に付き合って欲しいというので、人間の呼ぶところの「デート」──つまりは「逢引」を楽しんでいるところなのだ。
 油屋での帳場役としての仕事さえおろそかにしなければ、彼の私用での外出を咎めることのできるものは誰一人としていない。本当の名を取り戻してこのかた、彼はこの自由を心ゆくまで満喫し、トンネルを毎日のように行き来している。
 もちろん不思議の街を離れるのは、帳簿の整理や諸々の仕事をすべて終えてからだ。生真面目な彼らしく、そこのところは抜かりない。今日とて早起きをして、やるべきことを手際よく済ませてきた。ぐうの音も出ない湯婆婆の鼻先で、にっこり笑いながら玄関の戸をぴしゃりと閉めてやった。雇い主であろうが、誰にも彼が千尋と過ごす至福の時間を邪魔することはできないのだ。
「クリスマスの時期は、街が賑やかで楽しいね」
 並んで街の往来を歩いていると千尋がそう言った。学校帰りの彼女は制服の上に茶色のダッフルコートを着込み、ピンク色のマフラーを巻いている。軽やかな足取りに合わせて、頭の後ろでポニーテールがぴょこぴょことはねていた。可愛いなあ、と臆面もなく青年は破顔しつつ、喧騒の中どこからともなく流れてくる曲に合わせて歌を口ずさんでいる恋人の顔を、斜め上から覗き込む。
「千尋?」
「なあに?」
「私は千尋とこうしていられるなら、いつでも楽しいよ」
 マフラーに唇を半分埋めたまま小声で歌っている千尋が可愛くて、特に考えなしに、ハクは彼女の額に唇を押し当てた。通りの真ん中での突然の行動に周囲がざわめいた。好奇の視線が四方から突き刺さるが、ハクは気にもかけずに真っ赤な顔をする千尋の手を握り締めて歩き出す。彼にとっては無自覚の行動なので痛くも痒くもなく、恥も外聞もないが、生身の人間である千尋にとっては一大事だ。顔から火が吹き出るかと思った。
「ちょっと、ハクはここでお留守番してて!」
 すぐ目の前にある書店の自動ドアまでハクの背を押しやったかと思うと、用事を済ませてくるからと言い残し、脱兎のごとく人ごみの中にまぎれていってしまった。
 ハクはあっけにとられて千尋の背を見送った。置いていかれてしまった。しばらく追うべきか躊躇していたが、入口に立っていると出入りの邪魔になることに気が付いて、仕方なく書店の中で待つことにした。
 手持ち無沙汰に何気なく選んだ雑誌をめくっていると、クリスマス特集の記事が目に飛びこんできた。「カップルのためのクリスマス」と書かれてある。暇つぶし程度にと思って流し読みしていたハクだが、そこで初めてその雑誌に興味を持った。
「彼女がほしいクリスマスプレゼント、か。千尋は何がほしいだろう?」
 化粧品、アクセサリー、財布。女性が贈られて喜びそうなものが写真と共に紹介されている。そのひとつひとつを目で追いながら、ハクの脳裏には贈り物を受け取る千尋の嬉しそうな顔が浮かび、気分が高揚した。
 そんな彼の興味をさらにそそる見出しがあった。
 ──男性が知っておくと便利なクリスマスの風習。欧米ではクリスマスの日、宿り木の下でなら女性にキスをしても許される。女性がこれを拒むことはできない。
 読み終えたハクの口元に微笑が浮かんだ。恋人と呼べる関係となって数ヶ月。恥ずかしがり屋な千尋は、まだ人前で手を握るだけでも精一杯といった様子だ。先程のようにハクがスキンシップをはかろうとすると、居た堪れなくなって逃げ出してしまう。キスなど百年早いと言われてしまいそうだ。
 けれど、ハクには百年も首を伸ばして待っているつもりはない。心をわかち合った愛しい娘は、すぐ傍いるのだ。きっかけさえ掴むことができたなら、口づけくらい「恥ずかしい」と感じさせる間もなくやりおおせてみせるつもりだった。


 クリスマスがやってきた。不思議の街には本来縁のない行事だが、繁忙期には時々油屋に手伝いにやって来る千尋の影響で、ここ数年は街を活気づかせる冬のイベントのひとつとして認められつつある。
 時計台や食堂街、海原電鉄に至るまで、ささやかながらクリスマスの飾りつけが施されている。油屋は経営者が西洋渡りの魔女であるということもあり、装飾に余念がない。橋の袂と前庭の一本松にはそれぞれ魔法のかけられた無数の飾りがぶさらがっており、雪の結晶が夜になると輝いたり、華奢な精霊の姿に形を変えて飛び回ったりして神々の目を楽しませ、時の移ろいを感じさせない「不思議の街」の新たな風物詩となりつつあった。
 ハクはすでに開店時間を迎え、客が行き交う油屋の廊下を歩き回って装飾を確認していた。あちこちに赤いリボンのかかった宿り木が飾られているのは、彼が手ずから施したものだ。「沼の底」の銭婆の庭園から頼んで譲り受けてきたものだった。
「きっかけは、待っているだけでは訪れない時もある。時には自分から作り出さなければ」
 そんな彼の独り言を、重く積み重なった宴会の食膳を運んでいた小湯女がすれ違いざまに聞きつけて、不思議そうに小首を傾げていた。
 久々に桃色の水干に身を包み、ポニーテールに赤いリボンを結んだ千尋もまた、配膳所と客間とをせわしなく行き来していた。学校がちょうど冬休みに入ったこともあり、クリスマスから年末年始にかけてを繁忙期の油屋で手伝いをして過ごすことにしたのだった。
 不思議の街にクリスマスというイベントをもたらした張本人だけあって、千尋は先程から宴会に引っ張りだこである。八百万の神々は異端のものに対して寛容であり、また好奇心旺盛だった。人間嫌いの魔女が唯一重宝している人間ということで、何かと注目を集めていた。
「千、こちらへ来てわしらの酌をしておくれな。この葡萄酒はなかなか美味いのう」
「いやいや娘よ、こちらへ参るのじゃ。菓子をやろうぞ」
「なんとも陽気な楽の音だ。ほれ、共に踊り明かそうではないか」
 忙しさに目を回す千尋だが、充実感はあった。こうして働くことで、誰かの役に立てているという気がしていた。
 もう何度目かの葡萄酒のおかわりをとりに配膳所へ急ぐ千尋の前に、すっと誰かが立ちはだかった。帳簿を抱えたハクである。いつも通りの水干を着ているのに、頭に真っ赤なサンタの帽子をかぶっている。千尋がトンネルの向こうから調達してきたものだが、そのアンバランスさに千尋はつい吹き出してしまった。
「ハ、ハク様、帽子がよくお似合いで……」
 ハクは帽子の先についている白いポンポンに触りながら、まんざらでもなさそうな表情で微笑んでみせ、千尋の手を握った。
「こちらへおいで」
 特に何の疑いも持たずに千尋はついていった。向かっていたはずの配膳所とは別の方向に歩いていく。人気のない静かな場所までやってくると、振り返ったハクは廊下の壁に手を付き、自分と壁のあいだに千尋を閉じ込めた。
「ハク?」
 緊張した声で千尋が呼ぶと、ハクは内緒話のように声を落として囁いた。
「千尋はクリスマスの迷信を知っている?」
「迷信?たくさんあるみたいだから、全部は知らないけど……」
「では、宿り木の迷信は?」
 千尋は首を振る。ますますハクの笑みが深まり、視線を頭上へと流した。千尋もそれにならってみると、赤いリボンのついた宿り木の飾りがすぐ真上にあった。
 ハクに視線を戻すと、目と鼻の先に顔があった。驚いた千尋は後ずさろうとするが、後頭部が壁にぶつかってそれ以上は下がれない。温かいミルクにとけるマシュマロのように甘い彼の声が、耳たぶをくすぐった。
「──この宿り木の下ではね、好いた娘に口づけをすることが許されるそうだよ」
 千尋が頬を真っ赤にして顔を背けようとした。それを察した彼はすかさず指先で彼女の顎をすくい上げる。
「だから、今から私はそれを試してみようと思う。そしてそなたは、決して拒んではいけないそうだよ」
「ど、どうして?」
 ハクは目を細めた。
「縁起が悪いそうだ。良くないことが起きるかもしれない」
 験担ぎなんてどうでもいい。千尋はこの状況から逃れるために、彼の不意をつくことにした。今にも触れそうな唇をすんでのところでかわし、羞恥にすくみそうになる心を叱咤して、ハクの首元にしっかりと抱き着く。
 案の定、彼は動揺した。
「千尋?」
「こ、ここじゃ恥ずかしいから嫌!」
「では、どこならいいの?」
「もっと、人のいないところ。──ハクの部屋とか」
 一瞬ハクは目を見開いたが、すぐに穏やかな表情に戻り彼女を抱き締め返した。
「分かった。私もそなたを愛しく思うあまり、少々事を急きすぎたよ。許しておくれ。こういうことは、誰の目にも触れないところでするべきだね」
 ごめんハク、と心の中で千尋は謝罪した。安心しきった彼が離れたのを見計らって、素早くきびすを返し、一目散に元きた廊下を駆け出した。
「千尋!」
 背後で呼ぶ声が聞こえるが、千尋は振り返らない。
 手を繋ぐだけでも精一杯で、抱き締められたりしようものなら、こんなにも心臓がうるさい。
 キスなんてもってのほかだ。きっと、心臓麻痺を起こして死んでしまう。


「どこに行ってたんだよ、千!」
 葡萄酒のおかわりを持って宴会の間に戻ると、人手が足りずに苦労していたらしいリンはおかんむりだった。
「お客様方がお前が戻るのを楽しみに待ってたんだぞ。道草食うんじゃねえ!」
「ごめんなさい!」
 叱られていてもなお、先程のハクとのやり取りが頭から離れない。千尋は胸の高鳴りを抑えながら、運んできた葡萄酒をひとつひとつ配っていく。それを受け取る春日神御一行のうちのひとはしらが、面妖な雑面をつけた顔を千尋に近づけ、おや?と首を傾げた。
「娘よ、何ぞ好いことでもあったか?」
「はい?」
「そなたの顔に書いてある。さしずめ、好いた男とこっそり逢引でもしていたのであろう?」
 ほほほ、と口元を笏で覆いながら春日神達が一斉に笑った。下位の者を揶揄するものではなく、まるで孫を慈しむような和やかな笑みだ。それでもたまらなくなって俯く妹分を、リンは「そういうことだったのか」と悟ったような目付きで見遣る。そろそろと顔を上げた千尋が助けを求めるように見つめてきたので、仕方ねえなあと苦笑しつつも立ち上がった。
「お客様方、そのへんでからかうのはもう勘弁してやってくださいな。この通り、この子は初心な子でね。たちの悪い龍にいいようにされて、ただでさえ寿命が縮まってるんじゃないかと、姉貴分のあたいは心配でたまらないんですから」
 客間にどっと笑い声が上がった。屏風の前で優雅に舞を披露していた白拍子達も、クリスマス飾りの鈴とひいらぎをつけた扇子で、白塗りの顔を隠して必死に笑いを堪えている。「たちの悪い龍」が誰のことを指しているのかは、皆が知るところだった。
 ──さて、噂をすれば何とやら。おもむろに障子が開き、誰かと思えばまさにその「龍」が姿を現した。
 彼は優雅な所作で音も立てずに障子を閉じ、ひっそりと微笑を浮かべながら頭を下げる。笑いに包まれていた客間は、一瞬にして水を打ったようにしんと静まり返った。
「帳場役のハクから御挨拶申し上げます。春日様御一行におかれましては、お愉しみいただいております様で何よりにございます」
 御一行のうちのひとはしらが、雑面を心なしか引きつらせてぎこちなく笑った。
「と、とつくにの祭りには馴染みの薄い我らであるが、そなたらのはからいはまこと粋であるな。──のう、ぬしもそう思うであろ?」
 隣に同意を求め、笏で口元を隠しながら意味も無く笑い合っている。客をもてなす側であるとはいえ、龍神は春日神よりも高位の座にある。彼らも秩序をわきまえているため、自分たちよりも身分の高いハクの機嫌をそこねることは避けたいのだろう。
 だが当のハクは神々の身分の差異などについてはさほど関心がないと見え、あくまで客をもてなす側としての礼節を律儀に守った。
「そのように仰っていただき光栄の極みです。──では、私はこれにて」
 障子を閉める直前、ほんの一瞬だけハクの目が千尋をとらえた。捨てられた子犬のような、寂しそうな目をしていた。千尋はようやくおさまった心臓がまた疼き出すのを感じ、いてもたってもいられなくなる。
「あ、あの、わたし──お料理をとってきますね!」
 気が付けば突き動かされるように、彼の後を追って客間を飛び出していた。


 探し回る必要はなかった。ハクは吹き抜けの欄干に手をついて、湯煙に包まれた賑やかな湯殿を見下ろしていた。その寂しげな背中に、駆け寄った千尋は顔を押し付ける。
「ごめんね、ハク」
 鼻から空気を吸い込むと、ハクの香りがした。水を司る神であるせいか、彼からはいつも心洗われるような、涼しげないい匂いがする。
「……千尋が謝ることはないよ」
 言ったきりハクは口を閉ざす。声の調子からして、ひどく落胆している様子だった。
 千尋は彼の腹に手を回して、少し力を込めて抱きついた。恋人としてではなく、落ち込んでいる人を慰めるためにこうしていると思えば気持ちが落ち着いた。
「わたしが逃げちゃって、がっかりした?」
「とてもがっかりしたよ」
 ハクは千尋の手にみずからの手をそっと重ねると、悩ましい溜息と共に吐き出した。
「宿り木の下で口づけを拒んだ千尋に、良くないことが起きてしまうかもしれない」
「わたしは大丈夫だよ。それ、ただの迷信でしょ?」
「あれは魔女の育てた宿り木だ。魔力がこもっている。それに、私も願をかけてしまった」
「願かけ?どんな?」
 ハクは内緒話をするように声を落とした。
「迷信通りにしたあかつきには、千尋に幸運が訪れますように。──それは裏を返せば、迷信に背いた場合には不幸が訪れてしまうということ。そなたの幸せを祈る気持ちが裏目に出るとは、思いもよらなかった」
 落胆を通り越して絶望的な彼。言葉を選びかねていた千尋はふと、頭上に宿り木の飾りがあることに気付いた。縋るようにそれを見上げる。
「──今からじゃ、遅いかな?」
 そんなつぶやきに、ハクが待ちに待ったとばかりに振り返る。目が合うと、やはり気恥ずかしくなって千尋は俯きかけた。
 が、彼はすでに先回りしていた。目をうっすらと閉じ、首を傾げる。半開きの千尋の唇に自分の唇をそっと重ね合わせ、ようやく欲しかったものを得た。
「たかが迷信、されど迷信」
 そう言ってハクは切れ長の目をいたずらっぽく細めた。
 千尋の膝から力が抜け、その場にぺたりと尻をつく。
「が──願かけをしたって話、嘘だったの?」
「嘘は言っていない。私はいつだって、愛しい千尋の幸せだけを願っているのだから」
 目線の高さを合わせてしゃがんだハクは、震える千尋の手を取った。赤面した彼女はそれを振りほどこうとするが、ふとあることに気付く。
「これって、もしかして──」
「これが、人の世での求婚の証だと聞いたよ」
 ハクの笑みがいっそう深まる。薬指に光る指輪を、千尋は信じられない面持ちで照明の光にかざした。
「これも嘘なの?また、わたしをからかおうとしてるの?」
「嘘などではないよ、千尋」
 彼の表情は誠実そのものだった。先程のいたずらっぽい様子はすっかり消えている。
「今すぐとは言わない。ただ、約束をしておきたいと思って」
「約束?」
「ずっと千尋を幸せにする、という約束」
 千尋は指輪をはめてもらった手を握り締めた。それを、ハクの手がそっと包み込む。
「──いいの?そんな約束しちゃって」
「いいんだよ。約束は、叶えるためにあるものなのだから」
 恥ずかしがり屋の彼女は、その言葉に後押しされたのか、今度は自分から彼の頬に唇を寄せてきた。ハクは不意をつかれたようだったが、嬉しそうにふわりと微笑んだ。
 ふと、千尋は周囲がやけに静かなことに気付く。
 見られていた。広間という広間の障子が開けられ、吹き抜けの上階からも欄干に寄りかかるようにして、見物人たちが微笑ましそうに二人の様子をうかがっていた。
「よっ、さすがは帳場役!いや、めでたいめでたい!」
 蛙男の掛け声を皮切りに、やんややんやの大喝采が沸き起こった。目を回しそうな千尋の手を握り締めたまま、ハクは颯爽と立ち上がる。
「私がそなたと交わした約束の証人がこれだけいる。それにこの宿り木も見ていた。決して、反故にすることはできないね」
 にっこりと笑う彼。きっと幸せにするよ、と告げる声が弾んでいた。


2014 Merry Christmas!


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