「──それはお前の人身御供か?」
 無粋な輩もいたものだ──。
 龍神は名残惜しげに娘の肌から唇を離し、声の主を横目で流し見た。
 夜の闇が地上に濃紺の帷を下ろしている。星の輝く夜空から降りそそぐ月光に、淡く照らされた川の畔。まだ真新しい川を統【す】べる神と、恋人である人間の娘とが、そこで脇目も振らずに睦み合っていた。草叢から這い出てきた昔馴染の白蛇が、それを見とがめてからかっているのだ。
「事が済んだあかつきには、川に引きずり込んで指一本残さず喰らい尽くすつもりなのであろう?」
「──いや。この娘は、贄などではない」
 早く失せろと言わんばかりに、龍神は低く答える。
 異変に気付いたらしい娘が、彼の下で不安げな表情をした。ボタンをすべて外され、ほとんど服の役割を果たしていないブラウスの前をかき合せてあらわになった胸元を隠す。
「ハク、誰と喋ってるの?……そこに誰かいるの?」
 声に反応した白蛇は鎌首をもたげて娘を凝視した。舐めるような視線に龍神の心はささくれ立つ。
 ──見るな。この娘は我が花嫁、私だけのものだ。
 そんな彼の胸中を知ってか知らずか、いや、きっと前者であろうが、龍の眷属である白蛇はにたりと笑いながらか細く赤い舌をちらつかせた。
「ほう、これはこれは。なかなか、美味そうな娘よ」
「……」
「コハクヌシ、お前も隅には置けぬな──」
 と、白蛇が月光を受けて輝く身を妖しくくねらせた時、
「待たれよ」
 龍神の声に殺気が宿った。
「それ以上この娘に近寄ること、まかりならぬ」
 その言葉を皮切りにあたりを取り巻く空気が急変した。木々は不穏にざわめき、成り行きを見守っていた下級神たちは恐れをなして離れてゆき、穏やかに流れていた川はうねりを上げて黒い濁流を呑み込む。
 しかし白蛇に動じる様子はない。怒りに我を忘れつつある若き龍神の姿に目を細め、教え諭すように言う。
「静まらぬか、コハクヌシ。かりにも龍王より賜りし川を統べる龍神であるお前が、この程度のことで目くじらを立ててどうする。折角新たな川を授かったというに、かように無碍に扱っていては、またも取り上げられてしまうやもしれぬぞ」
 痛いところをつかれたコハクヌシはつい沈黙してしまう。
 反応がなくなったことで興をそがれたらしい白蛇は、やがて大人しく元きた草叢へと帰っていった。
「……ハク?」
 しばらく後、すっかり身だしなみを整えた千尋が、しきりに溜息をつきながら川の水面を見下ろすハクの顔を横から覗き込んだ。
「さっきは誰と話してたの?」
 腐れ縁の白蛇だよ、と彼は溜息と共に答える。
「昔から私の兄貴分気取りでね。私が新たな川の主となったことを、一体どこで聞きつけたのやら。きっとからかいに来たに違いない」
「……からかわれても仕方ないんじゃない?外であんなことしてたわたし達の方が、悪いよ」
 千尋は頬をうっすらと染め、たまらなくなって顔をそらした。水面に映るハクの顔が、気難しげな龍神の表情から徐々に、愛しい娘を見つめる青年の表情へと変化していく。水を得た魚、というより、千尋を得た龍と言うべきか。
「ねえ、千尋。あんなことって、どんなこと?」
「ハクの意地悪。自分が一番よく分かってるくせに──」
「千尋がつい耐え切れなくて可愛い声を上げてしまう、あれのこと?」
 意地悪、と顔を真っ赤にした千尋が肘で隣の彼を小突く。けれどハクはめげるどころか、いたって真面目な顔で冗談なのか本気なのか分からないようなことを続ける。
「私の川よりも、千尋の澪ははるかに深い」
「え?」
「何度泳いでも、底が知れないからね」
 何を言いたいのかが分からず、千尋は首を傾げた。水面越しにその様子を見たハクも同じようにした。真っ直ぐなほつれ髪がさらりと白磁の頬に降りかかる。千尋がぎこちなく笑いかけると、彼の唇はゆるやかに弧を描いた。
「千尋。さっきの続きを、しようか」



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