山籠り その渓谷からは、紅葉で鮮やかに色づいた山並みを見晴かすことができた。 東京から電車を乗り継ぐこと約二時間半。都会の喧騒から離れた深い山奥に乱馬とあかねはいた。秋休みは山籠もりで修行するという彼に、景色がきれいだからと連れてこられたあかね。これといった用事もなく暇だったので、なんとはなしに許婚に着いてきたものの、秋の装いを凝らした自然の景色の美しさに単なる「暇つぶし」以上のものを感じていた。 「ほらな、言っただろ?きっと気に入るって」 額に浮かんだ汗をタオルでぬぐいながら、白い歯を見せてすがすがしく笑う乱馬。都会と違い空気がきれいなおかげで、修行がはかどっている様子だ。 ここには随分前に玄馬と武者修行の旅で滞在したことがあるとのこと。その時もちょうど季節は秋で、幼いながらも、連なる山々をいろどるみごとな紅葉が頭に焼き付いて離れなかったという。 「へえー。あんたにも、季節の移り変わりを愛でる繊細な心があったのね」 からかうように指先でつんつんと頬をつつかれて、やかましい、と肩を軽く小突きかえしてやる彼。 「いつもだったら、かすみおねえちゃんが焼き芋をふかしたり栗ごはんを炊いたりしても、なんの感慨もなくムシャムシャ食べてるくせに」 「なにい?俺だってなあ、ただやみくもにがっついてるだけじゃねーぞ?」 聞き捨てならないとばかりに乱馬は唇をとがらせる。額がくっつくほど顔を近づけられて、あかねはぱっと頬を染めた。 「ち、近いわよ……」 「ふん。あかね、おめーこそ食いもんに目がくらんでんじゃねーのか?」 あかねの唇の端に食べかけのおにぎりの米粒がついていた。それを指でとり、ぺろりと舐めとる乱馬。 「知ってたか?俺はなあ、あかねが食いもんをうまそうに食ってるのを見るのが、好きなんだよ」 唇を親指でなぞりながら、にこりと笑いかけられて、あかねはさらに赤面してしまう。 「そ、そんなこと、知らなかったわ」 「だろうなあ。ばれないようにしてたもんな」 「どうして?」 「ん?ああ、やましいから」 川を流れる水の音がさらさらと耳に心地良い。彼が言ったことも、一瞬その音色に流されていきそうになった。 「やましい、って?」 「ほら、お前の口ばっかり見てたからさ」 「それがどうしてやましいのよ」 「──おめーは本当ににぶいのな。口で言うよりやらなきゃわかんねえか?」 どういう意味、ときくより先に乱馬の顔が迫っていた。半開きの唇にやわらかな感触が重なる。啄むようにしてから、それはそっと離れていった。 キスをされた、と気付くのに時間がかかった。 「物食ってる時のあかねが可愛いから。キスしてえな、って思ってたんだ」 ふ、と小さく笑う彼。目を細めて見つめてくるその表情がやけに色っぽく見えて、あかねはまごついてしまう。 恋人になってから、これが何度目のキスだろう。仕掛けてくるのはいつも彼のほうで、いつもこんなふうに不意打ちで奪われてしまう。 付き合いはじめる前の姿からは想像もつかないほど、乱馬はあかねに対して積極的だった。こうして二人きりで山籠もりに行きたいと言い出すこと自体、以前の恋愛に奥手な彼には考えられないことだった。親が決めた許婚、という本人達の意志のない曖昧な関係から一歩踏み出せたことで、彼なりに成長を遂げたらしい。 ──親が決めたから一緒にいるんじゃない。 自分がいたいから、一緒にいる。 それが、今の彼女に対する彼の心からの気持ちだった。 けれどあかねは、そうしてまっすぐに自分を見てくれる乱馬のことが、ほんの少しこそばゆい。相手を求める気持ちの面では、彼よりもまだまだ未発達なのだった。だから不意打ちのキスも、甘いささやきも、まだ素直に受け取れずにいる。 「ら、乱馬の助平……」 「おいおい。言っとくが、男はみんなそうだぜ?」 「そっ、そんなことないもん。乱馬の馬鹿。助平。変態──」 「あのなあ。一体どこのどいつが、こんな可愛い彼女に欲情しねえでいられるっつーんだ?」 ほんの少し前まであどけない表情ばかりしていた少年が、ふとした瞬間にこういう大人びた顔を見せるようになった。好きな子を心ない言葉で傷つけるよりも、相手の幼さごと包み込んで、大事にすることを覚えるようになったのだ。 「俺だって男だぜ、あかね?今はまだいいけどよ。そのうち──とんでもねえ助平野郎になっちまうかもな?」 だからこれくらいで照れんなよ、と鼻の頭にまた不意打ちのキス。きゃ、と小さな悲鳴をあげるあかねの肩が小さくはねた。 「や、やめなさいってばっ!」 わはは、と大口あけて鷹揚に笑う乱馬。まったく悪びれはないらしい。 「怒った顔も可愛いなあ、あかねは」 「心にもないこと言わないでよ!」 「俺はいつだって本気だぜ?」 「嘘つきっ」 「嘘じゃねえって。好きだよ、あかね」 「……」 「好きだ」 子どもをあやすように抱き締めてくる乱馬と、先が思いやられるあまり頭を抱えるあかね。 二人きりの山籠もりはまだ始まったばかりだ。 |