Have a Happy Bath Day!


「千、坊と一緒にお風呂に入ろう!」
 その時その場に居合わせた油屋の従業員達は、充分に暖かいはずの湯殿の温度が一瞬にして氷点下にまで下がったことを実感した。
 恐れをなした蛞蝓女達はモップに縋って震え上がり、普段はつんと取り澄ました白拍子も広げた扇子でおずおずと白塗りの顔を隠し、掃除係の蛙男達はどうしたものかと口をぱくぱくさせて冷や汗を流し出す始末。
 その不穏な空気の出処である、帳場係の青年はというと──
 つい今しがた、小湯女の千と話していた時の表情のまま凍り付いていた。表面上はいつものごとく、彼女を前にすると自然と表れる、花を愛でるように優しい微笑みを浮かべている。だが、その目が完全に据わっているのだ。
「ねえ、千、いいよね?坊、千に背中を流してもらうんだ!」
 周囲が不穏な空気にすっかり萎縮していることも知らず、なんとも傍迷惑な発言者は毒気のない無邪気な声で千尋に無理難題をせがんでいる。千尋は目の前の青年が周囲を震え上がらせるほどの冷気を発していることも知らず、おかしそうに笑いながら、
「坊がもう少し痩せてからじゃないと、一緒には入れないよ?背中を流すくらいなら、やってあげられるけど」
「えー、いやだいやだ!坊は千と一緒にお湯につかりたいぞ!」
 巨躯の赤ん坊は頭を振り、むずがって地団駄踏んだ。ミシミシ、という不吉な軋みの音と共に湯殿全体がぐらつくと、湯釜からはなみなみと張られた薬湯がこぼれ、足元のおぼつかなくなった蛞蝓女達は小さな悲鳴を上げた。虫の居所の悪い巨大な子どものせいで、彼女達の受難はしばらく続いた。
 ついに勇気ある番台蛙がなりふりかまわず坊の足元に身を投げ出して、
「坊様、床が抜けてしまいまする!どうかおやめくださいっ」
 なんとか嘆願を試みるが、蝶よ花よと甘やかされて育った雇い主の子どもは聞く耳を持とうはずもない。今や上階で動き回っていた従業員達も、何事かと欄干から身を乗り出して吹き抜けの下方の様子を窺う始末だ。
「千が一緒にお風呂に入ってくれなきゃ、泣いちゃうぞ!坊が泣いたら、バーバが降りてきてお前らなんかみんな八つ裂きにされちゃうぞ──!」
 目に今にもこぼれ落ちそうなほど涙を浮かべた坊が大声で揺さぶりをかけた。さすがに困り顔になっておろおろし出した千尋の手を、彼はふっくらと肥えた白い手でつかもうとした。
 ──が、その手は別の手に振り払われてしまう。
「坊」
 千尋との間に割り入ったのは、今までただ静かに冷気を発していたはずのハクだった。手に負えないほど我儘な雇い主の愛息子を前に、切れ長の目は怯むどころか、むしろ厳しい色をたたえて真っ直ぐに相手を見上げている。
「ご覧ください。千が困っているのが判りませんか。お戯れはもうおやめになるべきです」
 そんなに直球に言ってしまっては、泣いてしまうのでは──。怒髪天を衝く勢いで怒り狂う雇い主の有様を想像して顔面蒼白になる一同だったが、意外にも坊は不満げな顔をしただけだった。
「うるさいな。ハクは黙ってろよ」
「黙りません。千と風呂に入るなど、この私が絶対に許しません」
「どうしてお前の許しがいるんだ!」
 ハクは不敵に口角を持ち上げてみせた。
「──千は、私の恋人ですから」
 欲しかったものを得た者が見せる余裕の笑み。いまいましそうに、坊が唇を尖らせる。
「でも、痩せたら一緒に入ってくれるって約束してくれたぞ。ね、そう言ったよね、千?」
「えっ?う、うん……そうだったかな?」
 二人の応酬に気圧されたらしい千尋が、ハクの背に隠れてぎこちない笑みを浮かべる。どうも押しに弱いらしい恋人に、ハクは溜息をついた。
「──では、あなたがその素晴らしい体型を維持できるよう、私が誠心誠意お手伝いさせていただくこととしましょう」
「ハク!お前、意地が悪いぞ!」
「何とでも仰ってください。どう足掻こうと、無駄なこと。千は私のものですから」
 つんと顎を反らし、ハクは自分の背後に隠れている千尋の手をこれみよがしに握った。意地でも見せつけてやるつもりらしい。
「悔しい!絶対に、絶対に痩せてやるんだからなっ!今に見てろよ、ハク!」
 言うなり坊は風呂釜に突進していき、ざばんと水飛沫を立てて薬湯の中に飛び込んだ。釜の外側の掃除を中断していた蛞蝓女が、憐れにも頭からまともに湯をひっかぶっていた。
「悔しい!悔しい!」
 そうして彼はしばらく湯船の中で手足をばたつかせ、放っておくことも近づくこともできずにいる蛞蝓女や蛙男達をひやひやさせていた。

 手を引かれて昇降機に乗ったところで、ハクがようやく千尋を振り返った。案の定、納得がいかないといった表情。
「千尋。そなたは、あの子に甘すぎるよ」
 詰め寄られた千尋は、レバーを引こうか引くまいか決めかねている素振りで視線をさまよわせながら、
「ぼ、坊は子どもよ?子どもには優しくしてあげなくちゃ、だめじゃない?」
「子どもだとしても、男だ。そうだろう?」
 言い諭すハクの顔は真剣そのものだった。
「他の男に、みすみすそなたを渡すわけにはいかないよ」
 じりじりと壁際に追い詰めらた。両腕に挟まれ、逃げ場を失った千尋は思わず目を閉じる。目の前に迫ったハクの薄い唇が開き、少し掠れた声がこぼれ落ちた。
「──どうも無防備でいけないね。千尋は」
「そんなこと……」
「時として優しさは仇となる。──覚えておいで。あの坊という子は、姿こそああいうかたちをしているが、千尋が思っているよりもずっと成長しているということを」
 どういう意味、と聞こうとすると唇にそっと人差し指を当てられた。彼は切れ長の目を細めながら、
「千尋。仕事が終わったら、女部屋へ戻らずに私の部屋へおいで」
 どうして、と彼女が視線で訊ねるより先に、白皙の青年はふっと大人びた笑みをこぼした。
「折角だから、ゆっくり背中でも流してもらおうかと思ってね──」
 冗談なのか本気なのか判然としない声音。それでもその様子を想像して、つい顔を赤らめてしまう千尋だった。



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2014.11.26 いい風呂の日=湯屋の日=油屋の日!





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