Reprise


 人には想像すら及ばぬほど、はるか遠い昔のこと。
 彼がまだ生じて間もない幼龍として大海の竜宮城にあった頃、名付けの儀を行なった折に、あらゆる龍神の頂点に立つ龍王がこのようなことを彼に告げた。
「今からそちに名を与えよう。これは『真名』であり、そちの命も等しい言霊あるから、決してみだりに口にしてはいけない」
 そして龍王はこう続けた。
「よいか。何人たりともそちの真名を知ることがあってはならぬ。それを知られたならば、そちは身も心もかの者に支配されることになる。そしていずれは全てを奪われ、己を見失うだろう──」


 背中に乗せた少女がおごそかにその名を告げる。瞬間、長いトンネルに迷い込んだかのような深い闇の中に、ひとすじの光明が差した。
「──あなたの本当の名は、コハク川」
 決然とした少女の声は一瞬にして闇を光へと変える。
 そして彼はようやく思い出した。自分が何であったのかを。
 本来魔女などに使役されるべき存在ではなかった。彼もまた八百万の神々の一員、神籍に身を置く者だったのだ。小さいながらも美しく、清らかな川を統【す】べる龍神であった。
 あの日龍王が発した忠告が、突如として走馬灯のように彼の脳裏を過ぎった。真名を伝えてはならぬと言い付けられていたのに、それでも魔女の契約書にその名を記してしまったのだ。愚かな行いだった。何もかも龍王の忠告通りとなった。彼は真名を知る湯婆婆に支配され、全てを奪われかけた。記憶のみならず、命さえも。
 そして今度は、この少女にも正体を知られてしまったのだ。
 ──しかしそのことを微塵も案じてはいない。むしろすがすがしい心持ちだった。
 千尋になら。たとえ全てを知られ、支配されたとしてもかまわない。

「私の名は、ニギハヤミコハクヌシだ」

 千尋は大粒の涙を流して言った。──すごい名前、神様みたい、と。
 そう、彼は神なのだ。魔女に支配された落ちぶれ神。そして人間に心奪われた愚かな神──。
 真名は命にも等しいものだとかつて龍王は教えてくれた。愚かにもその名を魔女に教え、邪悪なその手に己の命運を委ねたのは、神としての彼がそう駆り立てたからだった。ただただ、魔法の力によって滅んだ川を蘇らせたい一心だった。
 そして今、彼が再び命にも等しい真名を口にするのは、──千尋に覚えていてほしいと思うからだった。

「ねえハク。ちゃんとやれるかな?わたし」
 千尋の目はまっすぐに前を見つめている。彼に問いかけながらも、答えは既に自分で見出しているようだった。その横顔を見て彼は確信する。「掟」に基づき魔女により課される試練も、この少女ならいともたやすく乗り越えられるだろうと。
「うまくいけば、帰れるんだよね?お父さんとお母さんと、三人でトンネルの向こうに。そうしたら、ぜんぶ元通りになるよね。車に乗って、新しい引っ越し先に行って──」
 弾む少女の声。それはやはり彼女がここに属する存在ではないことを物語っていた。
 望み通り少女はもとの世界へと帰っていく。そしてトンネルを抜けた時、彼女の脳裏からはここで見聞きしたことのいっさいが消え去るだろう。ここでともに分かち合った喜びも、おそらく忘れてしまうに違いない。
 そうだとしても、心のどこかで覚えていてほしいと思った。
 名を、どうか忘れずにいてほしい。
 独り善がりの、浅ましい願いかもしれないけれど。
 いつかまた出逢い、その手を取る日が来たならば──。その目でまっすぐに自分を見つめ、その声でまた名を呼んでほしかった。

 恋もまた支配なのだということを、彼は身をもって思い知るのだった。
  

 
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