逆鱗


「そういえば、ハクにも『逆鱗』ってあるの?」
 休憩がちょうど重なり、厨房の隅の方で二人並んでまかないをいただいていた時だった。千尋が口の端に米粒を付けたまま、自分に反して行儀正しく茶漬けを口にしているハクの顔を覗き込んできた。
「龍には逆鱗があって、それに触るととっても怒るんでしょう?前に学校で、逆鱗に触れる、って言葉を聞いたことがあったから」
 ハクは音も立てずに茶漬けをたいらげると、箸をきちんと揃えて置き、にっこりと笑った。
「よく知っているね。うん、私にも『逆鱗』はあるよ。龍には鱗が八十一枚あって、喉の下に生えているものが千尋の言う『逆鱗』なんだ」
「ふうん、ハクにもあるんだ!」
 千尋が興味津々、ハクの白い喉元を覗き込む。
「やっぱり、ハクも逆鱗に触られたら怒るの?触った人を殺したくなっちゃうくらい?」
「警戒はするけれど、怒りはしないかな。それに、私は人を殺したりはしないよ」
 龍の少年は肩口で切り揃えた髪を揺らし、首をそっと傾げて千尋の顔を覗き込んだ。彼女の唇の端を指差して、
「千尋、ここに米粒が。取ってもいい?」
「え?──う、うん。ありがとう」
 突然の接近に前掛を握り締めながら赤面する千尋の様子を知ってか知らずか、頬に手を添え、指で米粒を取ってやる。人形のように整った少年の顔がすぐそこにある。緑がかった瞳が彼女の目をじっと覗き込んだ。照れくささを誤魔化すように千尋がおどけて笑うと、ハクも破顔した。
「千尋。今、私に触れられて、嫌ではなかった?」
「ううん。嫌じゃないよ、全然」
「私も同じだよ。千尋になら、逆鱗に触れられても身構えたりはしないよ」
 千尋はにやにやしないように、つとめて頬を引き締めた。
「怒らない?じゃあ、今度わたしに見せてくれる?」
「お安い御用だよ」
「それ、触ってみてもいい?」
「もちろん。お好きなだけどうぞ」
 言った途端に、喉元を千尋にくすぐられ、ハクがくすぐったそうに身を捩った。
 厨房の恰幅のいい蛙男のうちの一人が、大鍋をかき混ぜる合間に「ああ、暑いったらありゃしねえ」と手団扇で顔を扇ぐ。三角巾で口元を覆った配膳係が、それを見とがめて換気扇の紐を引いた。
「ハク様もあの娘っ子も、いちゃつきたいなら余所でやってほしいものだねえ」
「言うだけ無駄さ。あの二人はいつだってあの調子なんだよ」
 帳簿係の少年と下働きの少女の恋は、こうして油屋の皆に見守られているのだった。



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