あけぼのの空



 上空の涼しげな夜風を頬に浴びながら、龍の少年は瞳を輝かせて微笑んだ。
「名前を思い出すことがこんなにすがすがしいことだなんて、思いもしなかった。──ずっと、もう二度と取り戻せないものだと諦めていたから」
 トンネルの向こうからやって来た少女は、手と手を取り合っての空中飛行が心地よいのか、両手をいっぱいに広げて息を吸い込んでいる。
 眼下にひろがる群青の海はどこまでも続き、夜空の星を映して宝石を散りばめたようにきらきらと輝いていた。雨が降って出来たこの広大な海は、世界の果てまで続いていく。「六番目の駅」などよりもずっと遠く、行きっぱなしの海原電鉄が辿り着く場所まで。
 海の上をまっすぐに走っていく電車に、気づけば千尋がちぎれんばかりに手を振っていた。ハクは微笑ましくて、握り締めた手に力を込めてみる。彼のことを救いたい一心で、あのどこへ続くとも知れない一方通行の電車に乗って、「沼の底」に棲む恐ろしい魔女のもとへと千尋は行ってくれたのだ。危険も顧みず、ただ彼の為だけに。
「ハクはあの電車に乗ったことがある?」
 千尋が薄紅の頬をゆるめて訊ねてきた。いや、とハクは静かに首を振る。
「移動する時はいつも龍になっていたから。あの電車は、近頃は行きっぱなしだと聞いたことがあるよ」
「そうなの。だから帰りは線路を歩いてこようと思ったんだけど、ハクが迎えに来てくれたから助かっちゃった!」
 ありがとう、と千尋が言った。礼を言うのは自分の方なのに、どうしてこの娘はこうも謙虚なのか。少女の真心に触れ、名を奪われたことによって傷ついた心が癒されていくのを感じて少年はこみあげる愛おしさに目を細めた。
「……千尋。正直に言うとね、私はあの時、死んでもいいと思ったんだ」
 小さな声でぽつりと告げる。案の定、規則正しいものだった少女の息が瞬時にしてすくんだ。
「契約印のまじないに身を蝕まれ、瀕死の目に遭った時。こうなるのも自業自得だと、どこかで諦めがついていた気がする」
 ハクはそっと目を閉じた。繋いだままの千尋の手が温かい。
「このまま本当の自分を取り戻せずにいるくらいなら、いっそのこと消えてしまってもいいと思った。──口に出してさえいれば、きっとそうなっていただろう」
 千尋がこの世界に迷い込んだあの夜、戸惑う彼女にハクは「この油屋では『いやだ』『帰りたい』などと言ってはいけない」と諭した。それは言霊がこの世界ではいかに重いものかを彼自身が身をもって思い知らされていたからだった。
 ──依代であった川を失い、不自由な身体を引きずって縋るようにこの世界へ駆け込んだ日。落ちぶれた龍神に用はない、と煙草をふかしてせせら笑う湯婆婆に向かって、彼は切実に「魔法使いになりたい」「もう帰る場所が無い」と口にした。その瞬間から徐々に、彼は魔法をかけられたように記憶を失ってしまったのだ。
 湯婆婆がかけたまじないではない。彼自身の言霊の呪縛だった。
「消えてくれと言えば、消えてしまう。それがこの世界の理なんだ。あの日、千尋の手が透けてしまったのも、きっと千尋がそう口に出してしまったからだろう?」
 千尋は唇を噛んで頷いた。
「ハクが教えてくれたおかげで、言葉に気を付けなきゃって思ったの。『嫌だ』とか『帰りたい』って言わないように、わたしすごく頑張ったんだよ」
 千尋は偉いね、とハクが柔らかに微笑みかけた。美しい少年のふとした笑顔に少女の頬が染まる。
「ハクが死ななくて良かった。わたし、ハクが助かるなら何をしてもいいって思ったの。本当だよ──」
 何も言わずに、ハクは静かに笑う。
 彼の司る川に落ちてきたあの日から、千尋は唯一無二の存在だった。その彼女に身を挺してまで「生きてほしい」と願ってもらえるとは、依代を失ったすたれ神でしかない彼にとってはまさに無上の喜びだった。
 愛しい少女が微笑んでくれるだけで、捨てたはずの命さえ惜しく思えてしまう。
「一緒に帰ろうね、ハク」
 いつまでもこの手を繋いでいたい。
 けれどそれを言霊には出来ない。だから、胸のうちで押し殺すように。
「千尋。夜が明けたら、きっともとの世界へ帰れるよ」
 白み始めたあけぼのの空──理の定めた終わりに向かって。
 やがては離す愛しい少女の手を引いて、龍の少年はおそれを知らずに飛びこんでいく。




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