小さな舟がひとつ、黄昏時の静かな湖に浮かんでいる。
 夏は終わりを告げ、しだいに日暮れが早まっていた。ひやりとした風が朱に染まる水面を撫で、ねぐらに帰る鳥達の羽ばたきが桟橋に並び立つ二人の頭上をかすめ飛んでゆく。
「──こんなに心が穏やかなのは、生まれて初めてだ」
 隣に立つ半妖の感慨深げな囁きに、巫女は優しく目を細めた。
「私も、──と言ったら驚くか?犬夜叉」
 遠い景色を眺めていた犬夜叉はゆっくりと瞬きをし、その鼈甲にも似た透き通った瞳を愛しい娘へと向ける。視線が近いところでかち合い、どちらともなくどこか気恥ずかしげな笑みをこぼした。
「寒くねえか?桔梗」
「……いいや、寒くはない。お前が居てくれるから」
「そうか。俺も、桔梗が居てくれるから暖かい」
 半妖は手を伸ばし、緋色の袖のなかに花のように美しく汚れなき乙女を閉じ込めた。艷やかな黒髪をそっと撫で、細く長い安堵の溜息をつく。
「お前はいい匂いがする。生きた花の匂い──いつまでもこうしていたい気分だ」
「生きた花の匂い?」
「そうだ。これはお前だけの、そして俺だけの匂いだ。他の誰にも渡さねえ」
 どこか得意気にうなずく犬夜叉。桔梗はふ、と笑い目を閉じる。
「お前だけの──。そう、犬夜叉、私はお前のものだ」
 白磁のように白い手が彼の頬を撫でる。その心地よさに犬夜叉は目を細めた。
「私の身も心も、そして運命すらも、全てはお前のもの。お前と一緒なら、私は天すらも恐れはしない──」
 天神に祝詞を捧げるかのごとく清らかな巫女の声は、万物を説き鎮める。水面は凪ぎ、風はゆったりと木々の間を流れ去り、空は夜の眠りにまどろみ始める。
 桔梗が傍にいる限り、天が彼の目に見せるものはこの世の美しさばかりだった。桔梗の愛でるものは何もかも清らかで美しかった。草木も水も、風も鳥も、そして人の想いというものも──。
「……お前に出会えて、良かった」
 万感の思いを篭めて犬夜叉は囁いた。
「同じことを、私もいつも思っている」
 運命の果てに何が待ち受けているかさえ知らず──
 美しき巫女は顔を上げ、愛しい男に微笑みかけた。



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