花嫁 - 24 - | ナノ

花嫁 - 24 -




 忍び入るしかない──。
 城塞のような高い塀を見上げながら、アシタカは思った。
「あなたの屋敷にいる、囚われの姫君を返してほしい」
 と真っ向から頼み込んだところで、門前払いを食うのは目に見えているのだから。
 彼がこの広大な屋敷に的を絞った理由は簡単だった。三月ほど前にこの屋敷に連れてこられ、以来、深窓に閉じ込められているという「風変わりな姫君」の噂を耳にしたのだ。
 奥方がどれほど入念にその姫君の存在を隠し立てしようと、所詮無駄なことだった。これほど大きな屋敷であれば、それなりに多くの人間が内と外とを行き来している。内々に留めおける秘密など、あってないようなものだった。
「夜になったらあの屋敷へ忍ぶことにするよ。かならずサンを連れて帰ってくるから、そなたはここで待っていてくれ」
 丘に並ぶ桜の木々に身を隠している山犬のもとへ戻り、アシタカは決然と言い放つ。
 山犬はフンと鼻を鳴らした。
「手ぶらで現れた時には、覚えていろ。その役立たずな腕を噛み切ってやるからな!母さんがあの女にしたように」
 アシタカはそのわき腹を宥めるように優しく叩いてやり、毛並みをととのえてやった。
 三月もの間を共に過ごしたのだ。すっかり馴れ合ってしまい、もはやどんな脅しもアシタカには通用しなかった。
「そなたのことを、義兄上【あにうえ】と呼ぶ日が待ち遠しいよ」
「──調子に乗るな、小僧!」
 本気で牙を剥く山犬から、ひらりと飛びすさり、遥か東からやってきた青年は「そう怒らないでくれ」と目もとをゆるめた。


 空に霞のたなびく朧月夜、中庭で月見酒を味わっていた景朗は何やら不安な思いに駆られていた。
 許婚である三の姫はいっこうに彼に心を開く気配を見せない。足繁く屋敷を訪ねるも、姫はいつも心あらずといった様子で外を見つめている。
 姫の求めるものは、あの屋敷の中には何一つなかった。母の愛も、景朗の献身も、名のある屋敷の姫としての贅沢な暮らしも、あの姫にとっては慰めにはならない。
 ──春霞の深いこんな宵には、何かが起こりそうな予感がする。
 いてもたってもいられず、景朗は猪口を置いて立ち上がった。
 愛しい姫君に会わねばならなかった。


 それはほんの一瞬の出来事のようでもあったし、永遠のように長い時をかけて起きたことのようでもあった。
 見慣れた高い塀の上に、人影があった。
 一つではない。
 一人は背が高い。そして背の低い方は、線が細く、なめらかな衣を頭から被っている。
 朧気な月明かりが塀をほの白く照らし出していた。
 二人は見つめ合う。まるで、この世には自分達以外の誰も存在しないかのように。
 そして、身動きのとれない景朗の目線の先で、二つの影は重なった。
 娘の被っていた衣がひらりと舞い落ちる。
 景朗の目はぼんやりとその動きを追った。
 化生のものにあいまみえ、金縛りに遭ったかのように、馬上の彼は指一本動かさなかった。
 舞いを終えた衣は、魂魄が抜けたように地に打ち伏せ、二度と再び動かなかった。
 景朗はうつろな眼差しで塀の上を見上げた。そこにはもう誰もいない。
「三の姫──」
 青年は両手に顔を埋めた。


「夢みたい!」
「いいや、夢ではないよ」
「アシタカが迎えに来てくれるなんて──!」
 山犬は呆れたように溜息をついた。
「耳にたこができそうだぜ。さっきから、同じことばっかり……」
 そんな愚痴もどこ吹く風。長い間離れ離れだった恋人達は、夜桜の下でうっとりと互いを見つめ合っている。
「サン、そなたは随分と変わったね」
 アシタカはまずはサンの肩まで伸びた髪に触れ、それから上質な絹の着物にそっと指をすべらせた。
「囚われの姫君だったと言うのは、本当のことだったようだ」
「あんな生活は息が詰まりそうだった。……毎日毎日、アシタカ、お前のことばかり考えていたよ」
 サンは熱っぽく言い、アシタカの首に腕を回して抱きついた。彼女の着物から薫る上品な花の香の薫りに、一瞬、アシタカは心臓が締め付けられるような、切ない思いを味わった。
「独りで寂しかったろう。すまない──。すぐに助け出してやれなくて」
「──いいんだ。こうして、見つけてくれたから」
 固く結びついて解けない紐のように、アシタカはしかとサンを抱き締めた。サンもそれに応えた。

 離れ離れでいたからこそ、はっきりと見えたことがあった。

「サン、私はそなたを妻に迎えるよ」
 耳元でアシタカが告げた言葉に、サンははっと目を見開く。
「アシタカ……」
「もう離さない。心に決めたんだ、サンを絶対に誰にも渡さないと」
 青年の黒い瞳には、静かな決意がみなぎっていた。
 彼は一度定めを悟ったならば、決して退くことを知らない、不屈の精神の持ち主なのである。
「共に生きようと告げたあの時、私はもう心を決めていたのだ。いや、あるいはもしかすると、水辺で山犬に寄り添うそなたを見かけたあの瞬間から──」
 握り締めた手は小さかった。喜びをたたえた瞳が彼を見上げている。
 皆が怖れるもののけ姫とは、こんなにも美しく、こんなにも愛おしい娘御なのだ。
「共に帰ろう、サン」
「……ああ」
 手を取り合い帰路につく。二人の道行きを、霞にけぶる天の月が静かに見送った。



【続】

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