クローバー畑のなかの子豚  (らんま1/2)




 ぼくには好きな人がいる。面と向かって思いを打ち明けたことはないけど、ずっとずっとその人を見つめてきた。その人はとても可愛い人で、整った顔立ちはさることながら、砂糖菓子みたいに甘い笑顔でぼくに笑いかけてくれるし、綿あめみたいに柔らかい身体で小さなぼくを抱きしめてくれる。ぼくはあの人のことが大好きで、心の底から恋をしていて、でもぼくはあの人の愛玩動物だった。ぬいぐるみのように抱き心地がいい、ただ可愛いだけで何ら害をなすことのない、愛すべきペットだった。あの人と同じベッドに入って眠れるのも、鼻のてっぺんにキスしてもらえるのも、ぼくだけの特権だった。あいつ、つまりぼくの「天敵」がいくら焼き餅を焼いてぼくを追い払おうとしたって、あの人はいつもぼくを守ってくれた。重いダンベルを投げつけたり、箒で百叩きにしてやったりして。そのたびにぼくは優越感に浸ってふんぞり返っていた。ボロボロになって悔しそうなあいつの顔を見てると、最高に気分がすがすがしかった。
 ぼくの最高にして最悪な天敵は、ぼくがあの人の特別な存在でいることが気に入らなかった。自分はいつもたくさんの女に囲まれてるくせに、あの人のそばにぼくがいることが鼻持ちならなかった。自分以外の誰かがあの人に愛されているのが歯がゆいんだろう。それが小さなブタだったとしても。あいつは自分勝手で傲慢だった。むかしからそういうやつだった。ぼくはあいつのことが大嫌いだった。何度も決闘を申し込み、何度もコケにされた。弱みを握られたりもした。それなのに、なぜか心の底からあいつを憎むことはできなかった。天敵のあいつと一緒にいると、殺意を覚えることがだいたい九割。でもごくたまにおとずれる残り一割で、悔しいことにぼくはあいつを見直してしまう。
 あいつは、ぼくの天敵は、強くて自信過剰で、勝負には絶対に負けない男だった。あいつはいつか倒してやりたい天敵だけど、同時に一番理解し合える親友でもあった。時々、子ブタのぼくをつかまえて長話に付き合わせることもあった。話題はきまってあの人についてだった。天敵は一見すると図太い神経をしてそうでいて、意外にも繊細なやつだった。あの人に言われた些細な一言を気にして、表では何でもなさそうな顔をしておきながら、裏ではうじうじ悩んでたりするようなやつだった。あの人に嫌われたかもしれない。そう言って落ち込むあいつを何度も見てきた。ぼくは別に励ましてやる義理はないから、ただ話を聞いてやるだけだ。どのみちこの姿では喋れないし、天敵もそれが分かってるからぼくには助言も相槌も求めていない。ただ自分が吐き出したいだけ吐き出して、それを黙って聞いていてさえもらえればそれでいいんだろう。たまにむかついて噛みついてやったりすることもあるけど。
 しばらくあの人の家に行けない日がつづいた。久しぶりに訪ねてみると、あの人の部屋にあの人と天敵がいた。中に入れてもらおうと窓ガラスを叩こうとして、ぼくは凍りついた。二人はキスをしていた。初めてなのか、最初は試すようにおそるおそる、掠めるように触れてすぐに離れた。次はもう少し緊張を解いて、長めに唇を押し当てる。歯が当たってしまったのか、あの人が吹き出していた。むっとした様子のあいつが、今度は強引に奪った。あの人はつま先立ちして、天敵の首に腕を回していた。あいつはあの人の腰に手を添えていた。唇を離すと、二人は顔を見合わせてはにかむように笑った。何か囁き合っているようだけど、ガラス越しでは何も聞こえてこなかった。ふいに下から誰かが呼ぶ声がして、あの人が顔を真っ赤にした。慌てて部屋を飛び出していく。ぼくの天敵はというと、開けっ放しのドアを見つめてニヤニヤしていた。ぼくは無性に腹が立って、前脚で窓ガラスをばしばし叩いてやった。あいつははっとぼくを見て、ばつが悪そうな、でも勝ち誇ったような顔をした。窓ガラスを開けて、ぼくの首のうしろを掴み上げる。
「なんだよPちゃん、久しぶりじゃねーか!」
 ピーピーわめくぼくの顔をのぞき込んで、天敵は得意げに鼻穴を膨らませた。
「他人のキスを覗き見か?ずいぶん悪趣味だな」
 違う、覗いてたわけじゃない!少なくとも誰がおまえなんかを覗き見したがる?悔しいやら憎らしいやらで、ぼくは無我夢中で天敵の手にかぶりついていた。あいつが痛みに絶叫した。
「放せ、この野郎っ!酢豚にして食ってやるぞ!」
 やれるものならやってみろ!牙が食い込んで、口の中に血の味が広がった。
「こんの、放しやがれっつってんだろうがあ!」
 天敵が拳を繰り出した。ぼくはひやりとしたけど、殴り飛ばされる恐怖よりも何よりも、この手に噛みついていてやりたい衝動のほうが勝っていた。パンチは顔面に直撃し、ぼくの目にはちかちか光る星が見えた。ぼくは一瞬宙を舞い、次の瞬間には真っ逆さまに下へ落ちていった。身体が軽いし、落ちたところにクローバーがたくさん生えていたおかげで、落下の衝撃は軽くすんだ。けれどぼくはしばらく起き上がれずにいた。
 柔らかいクローバーに埋もれながら、ぼくはあの人と過ごした日々を思い出していた。初めて出会った日。Pちゃんと名前をつけてくれた日。鼻の頭にキスされて、恥ずかしいけどすごく嬉しかったこと。抱きしめてもらえると心が安らいで、抱きしめ返せないのがもどかしく思えたこと。寝顔があんまりにも可愛くて、目を閉じてしまうのがもったいなかったこと。穏やかな心臓の音が子守歌みたいだったこと。あの人は綿菓子みたいに可愛くて、心の底から大好きな人で、でも最初から、雲よりも遠い人だった。あなたのことが好きです、なんて言えるわけなかった。
 ただ可愛いだけの愛玩動物だとしても、そばにいられればそれだけで良かったのに。あんな二人の姿を見たあとも今まで通りの可愛いペットでい続けるなんてこと、ぼくにはできない。ぼくを抱きしめながらあいつのキスを受けるあの人の姿なんて、想像すらしたくない。ペットは従順で可愛いからペットなんだ。ただ抱きしめられているぬいぐるみでいられたからこそ、あの人はぼくを大事にしてくれた。
 ぼくはもうPちゃんではいられない。
 ここは涙が出るくらい心地いいけど。いつまでもクローバーに埋もれてなんかいないで、そろそろ帰るべきところに帰らないと。

 さようなら、あかねさん。




×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -