--> Valse du Petit Chien | ナノ







Valse du Petit Chien




 少年は惨めな思いを味わっていた。

 家を飛び出してから早七日。着の身着のまま出て来たせいで、金もなければ食物もない。
 飢えはどうにかなる。近くのコンビニやスーパーから少々失敬するくらい、別にどうってことはない。さすがに一日一度が限度ではあるが。
 それにしても、寝床ばかりはどうにもならなかった。
 この七日間、公園のベンチやら遊具やらで仮眠をとろうと試みてきたのだが、深夜の公園というのはなかなか物騒なもので、野良犬に噛まれそうになったり、不良達にカツアゲされそうになったり(金なんて持ってないのに)と、ろくな目に遭わないのだ。
 このままでは、睡眠不足と栄養失調で衰弱死しそうだった。


 少年が自分の苦境を悲観していると、ふいに誰かが彼の肩を叩いた。
 驚いた少年はベンチの上で身構える。金なら持ってないぞ。別をあたってくれ。
 だが暗がりの中に浮かび上がったのは、予想したような目つきの悪いチンピラではなく、会社帰りらしい地味なOLの姿だった。
「きみ、大丈夫?」
 OLは眼鏡越しに目を細めて少年にたずねた。拍子抜けした気分で彼は背を向ける。
「大丈夫なわけないでしょ。家出中なんですから」
 拗ねたように言うと、OLは眉根を寄せた。
「家出中?いつから」
「……今日で七日目」
 はあ、と呆れたような溜息。
「親が気に入らないからって、七日間もこんなところで籠城?反抗期真っ盛りって感じね」
「ほっといてください。あなたに僕の何が分かるんですか」
 貝のように丸まって殻に閉じこもる少年。OLは腕を組み、仁王立ちになってそんな彼を見下ろした。
「何も分からないし、分かりたくもないわよ。甘ったれた小犬くん」
 その呼び名が気に入らず、少年は振り返ってOLを睨んだ。
「……お姉さん、あんた絶対彼氏いないでしょ」
 とたんにOLは顔を赤らめた。
「なんですって?」
「あ、やっぱりいないんだ」
 にやりとほくそ笑む少年の頭を、OLは食材の入ったビニール袋で思い切り殴りつける。
「痛い!」
「レディにそんなこと言うなんて、最低っ」
 OLは肩を怒らせて彼に背を向けた。
「もういい。きみみたいな反抗期のお子様に声をかけた私が馬鹿だった!」
 買い物袋を置き去りにしたままさっさと歩き出すOL。後頭部をさすっていた少年は、慌ててその後を追った。
「ちょっと、忘れ物!」
「ついてこないでよっ」
「だってーー。ほら、今夜はお寿司なんでしょ?」
 少年は袋の中身を覗いた。缶ビールやらチーズやらと一緒に、傾いてしまった寿司のパックが入っている。忘れかけていた腹の虫が騒ぎ出した。
「美味しそうですね。いらないなら、僕がもらっちゃおうかなあ」
「……」
 OLは立ち止まる。恨みがましそうに振り返った。
「あげないわよ。私のだもん」
「えーっ。せめてガリだけでも!」
「だめ!」
「そんな……お願い、心優しいお姉さん」
 目を潤ませて懇願する少年。そんな彼を怪訝に見つめるOL。
 無言の応酬はしばらく続き、ついに根負けした彼女が盛大な溜息をついた。
「ーー仕方ないわね。今回だけよ?」
 少年は表情を輝かせた。
「いいんですか?」
「うっかり声かけちゃったのはこっちだもん。責任はとるわよ」
 OLは少年からビニール袋を奪取すると、思い出したように訊いた。
「ところできみ、名前は?」
「サバト」
 歩き出した彼女の後を小犬のように追いながら、少年は答える。
「それ、本当の名前?」
 OLがいぶかしむと、肩を竦めた。
「偽名なんか使わないよ。魚の鯖に人って書いて、鯖人。正真正銘、僕の本名です」
「ふうん。変わった名前ね」
 少年、鯖人は苦笑した。
「まあ、親が普通じゃないんで」


 公園から歩いて十五分ほどのところに、マンションやアパートの立ち並ぶ住宅街がある。そのうちの一つの七階建てマンションが、OLの住居らしかった。
 エレベーターは五階で止まった。彼女の部屋はエレベーターから一番遠いところにある。表札には「橘」と記されていた。
 部屋の中はこざっぱりとしていた。むしろ、閑散としている、と言うべきか。家具は最低限必要なものだけで、どうも女性特有の飾り気というものが欠けているようだ。
 無論、そんな感想は胸のうちに留めておくことにする。女性を怒らせるのは、あまり性に合わない。
「ソファでくつろいでてね。そこにある資料は触らないで。あ、テレビでもつける?」
 宙を飛ぶリモコンをうまくキャッチした鯖人は、それを握りしめた。電源をつけるも、テレビではなく、オープンキッチン越しに見える彼女をまじまじと見つめる。
「橘さんって、ちょっと変わってますね」
「え?」
 電気ケトルに水を注ぎながら橘は顔を上げた。
 なるべく言葉を選ぶことにする。
「一人暮らしの女性でしょう。こんな夜更けに、僕みたいな見ず知らずの高校生をうちに上げるなんて。なんというか、不用心な気がします」
 すると、橘は心底不愉快そうな顔をしてシンクから身を乗り出した。
「あのね、忘れたの?きみの方から助けを求めてきたんでしょ」
「あ、そうでしたっけ」
「そうよ。というかきみ、高校生なんだ」
「うん。まあ、入学早々、退学の危機ですけど」
 ケトルをセットすると、橘は再び鯖人に視線を戻した。眉根にしわが寄る。
「退学?どうして?」
「だって僕、頭悪いし。勉強は苦手なんです。それに規則違反の常習犯だ」
「きみ、もしかして不良?」
「そう見えますか?」
「だって髪がすごい色。あと、目も。それってコンタクト?」
 鯖人はくすくす笑った。
「これは生まれつきですよ」
「そんな訳ないでしょ」
 箸と寿司のパックをテーブルに置くと、橘はじろりと少年を睨んだ。眼鏡を外した顔を近くで見ると、案外童顔で可愛かった。
「あんまり浮ついたことばっかりしてると、親泣かせるよ。せめて親の目が黒いうちだけでも、まともに生きなさい」
 言っていることは思い切り大人だが。
 寿司は形が少しくずれていた。それでも味は変わらない。鯖人は何日ぶりかのまともな食を味わった。
「橘さんは食べないんですか?」
 箸を置いたままの彼女を気にして鯖人は訊いた。ビールを片手にした橘の視線は、テレビの旅行番組に釘付けだ。
「え?……ああ、私はいいよ。好きなだけ食べなさい」
 彼女はどこか遠い目をしていた。
 画面いっぱいに広がるのは、どことも知れない青い街だった。空が抜けるように青い。建物や街路も全てが淡いブルーで統一されている。まるで物語に出てくるおとぎの国のような所だ。
「好きなんですか?旅行番組」
「最近好きになったの。行ったことのない場所をたくさん知りたくて」
「ふうん。ここ、なんていう国だろう」
 さあ、と上の空な返事。あまり興味がないらしい。
「すごく幻想的なところね。この世にある場所じゃないみたい。ーー死んだあとの世界って、こんな感じなのかなあ」
 誰にともなく橘が呟く。疲れがたまっているのか、目をこすりながら。
 全然違いますよ、と心の中で少年は答えた。


空きっ腹にビールを流し込んだのが災いしたのか、酔った橘はテーブルにうつ伏せになって眠ってしまった。
 帰ろうかとも思ったが、黙って去るのも気が引けて、結局鯖人もソファの上で丸まって目を閉じた。
 ーー朝、目覚めると、部屋中に香ばしいにおいが漂っていた。テーブルにはラップがけされたトーストとサラダと目玉焼きが置いてある。
 時計を見ると九時を過ぎていた。橘はもう仕事に行ったらしい。
「やっぱり不用心だなあ……」
 トーストをかじりながら鯖人は苦笑する。それは焦げ目がついていて美味しかった。


 橘は不思議な人間だった。
 見ず知らずの高校生を家に上げ、寿司をふるまい、一晩泊めてやったかと思うと、今度は好きなだけいてもいいと言い出した。
「迷い犬を見るとほっとけないのよ」
 そう言って彼女は笑っていた。
 行くあてもない鯖人は彼女の親切に甘えた。
 毎日、橘が出勤したあとに起き、橘が作った朝食を食べた。橘が撮り溜めた旅行番組を観て、手伝える範囲で家事を手伝った。橘が帰宅すると一緒に夕食をとった。
 家族や友達とは疎遠なのか、彼女を訪ねてくる人間はいなかった。ビジネスコール以外で携帯電話が鳴ることもなかった。仕事付き合いの飲み会などにも参加せず、毎日かならず定刻で帰宅する。自分の生活の枠組みから外れることのない彼女。
 週末は一緒に旅行番組を観たり、お菓子を作ったりして過ごした。鯖人がいようがいまいが、今までもそうしてきたから、何も変わらないという。
 居心地が良かった。だから出て行かなかった。
 そんな彼を橘は黙って見守ってくれていた。


 迷い犬を放っておけないと言う反面、彼女には矛盾した点があった。
 日を追うごとに、橘の部屋からは少しずつものが減っていくのだ。
 写真立てや鏡のような小さなものから、机椅子のような大きなものまで、橘は一つずつ黙々と捨てていく。おかげでただでさえシンプルだった彼女の住まいは、今や殺伐とさえしていた。
 彼女がテレビにまで手を伸ばした日には、これまで口を出さずにいた鯖人もさすがに理由を聞かずにはいられなくなった。
 これが終止符を打つことになる。


「どうしてものを捨てるんですか?まだ使えるものばかりなのに」
 テレビの周りをモップで掃除しながら、橘は振り向きもせずに答えた。
「使う人がいなくなるから、もういらないのよ」
「どういう意味ですか。橘さん、引っ越すんですか?」
 それがツボにはまったらしい。急に橘は笑い出した。
「何がおかしいんですか?」
「ごめん。なにげに的を射てるなと思って」
 むっとする鯖人をよそに、橘は肩を震わせ続ける。
「うん、そうね。私、もうすぐ別の所へ引っ越しするのよ」
 だから引っ越し先を決めるために旅行番組ばかり観てたの。
「で、決まったんですか?引っ越し先」
 ううん、と彼女が首を振る。
「決まらなかった。だから、やっぱり最後までここにいることにしようかな」
 ーー最後まで。
 鯖人は彼女の後ろ姿を見つめた。
 テレビのコンセントを抜くために背中を丸めている彼女。十ほども年上のはずなのに、その背はとても小さく見えた。
 どうして気付かなかったんだろう。
 深く、息を吸う。
「会ってしまったんですね」
 静かに彼は言った。コードを結びながら、橘が聞く。
「誰に?」
「……死神」
 橘の手が止まった。鯖人はソファからゆっくりと立ち上がる。
「死神があなたに寿命を宣告しに来た。違いますか、橘さん」
 橘は勢いよく振り返った。
 二人の目が合う。見開かれた彼女の瞳から、涙があふれ出した。
「……どうして分かるの?」
「ごめんなさい。一応、僕も死神の端くれなんです」
 彼は橘の目の前に膝をつく。手を伸ばし、頬に触れると、彼女の涙を親指でぬぐってやった。
「ーー病気なの」
 橘の瞳はガラス玉のように虚ろだった。
「治療しても無駄だって。もう手遅れだって。ーーだから私、あの世に引っ越しするの」
 鯖人は目を細めた。
 目頭が熱くなった。そんな顔を見られたくなくて、橘を強く抱きしめる。
 こんなことは、初めてだった。他人を思って泣きたくなるようなことは。
 落ちこぼれの死神ながら、様々な人間の魂を見てきた。けれど彼らの悩みや苦しみに、彼は全然共感できなかった。いつも他人のことに無関心な自分。死神としての素質が欠けていると思った。
 人間なんていつか皆死ぬものだ。
 そうやって、人の命を軽んじていたはずだったのに。
「死に場所を探していたの。綺麗なところで死にたいと思ったから。……でも、怖くなっちゃった」
 震える橘の手が、遠慮がちに彼の背に添えられる。
「お願いがあるの。今夜だけでいいから、そばにいてくれる?」
 掠れた声で彼が聞き返す。
「……今夜だけ?」
「そう、今夜だけ」
 橘の声はそよ風のように優しく、穏やかだった。
「明日になったら、さよならしましょう。ーー小犬くん、あなたはそろそろおうちに帰らなくちゃ」
 鯖人は首を振る。子供がだだをこねるように。
「いやだ。帰らない」
「小犬くんーー」
「僕は小犬じゃない!」
 初めて聞く彼の怒声。彼女の体が震えた。
「僕は死神だ。あなたの命を延ばすことも、縮めることもできる。だから……だから橘さん、僕に頼んでよ。もっと生きたいって」
 あなたを助けたい。死んでほしくなんかない。
「お願いだ。死ぬ準備なんか、やめてーー」
 鯖人は嗚咽を堪えた。誰かのために泣くことは、心がちぎれそうなほどつらい行為だった。
「ーーありがとう、小犬くん」
 相変わらず橘の声は優しかった。頭をくしゃくしゃに撫でられる。

「ありがとう。あなたに会えてよかった」





 現世の空は今日も眠たげな淡い色をしている。白い煙突からのぼる煙が、さらにそれをぼかしていた。
 彼はそれを下から見上げている。飽きもせずに、ずっと。
 やがて煙が消えた。それでも彼は待った。空はしだいに赤みを増し、最後には夜の帳が落ちてくる。
 朝が来て、ようやく彼は悟った。どれほど待とうと彼女にはもう会えないのだと。
「未練の一つくらい、なかったの?」
 ああ、確かになさそうだ。最後に見た彼女の顔は、とても安らかな表情をしていた。
 幽霊になって会いに来てくれるかもしれないなど、期待外れもいいところだ。





 やがて少年はもとの生活に戻った。
 死神がいかに無力な存在であるかを思い知り、そのやるせなさをこれまで以上の怠惰と享楽で埋め合わせた。
 大人になっても彼はその生活を改めず、幾度となく法に触れ、死神界きっての極悪犯罪者として後ろ指を指されるようになる。
 だがそれで良かった。死神という存在への敬意など、とうに地の底をついている。
 死神としての自分を、彼は見限ったのだった。












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