Romeo's grief




 荷物を背負って外に出ると、凍てつくような外気に身体が震えた。真冬の夕暮れ時、これから冷え込みはより一層厳しくなるばかりだ。
 そういえば、マフラー、部屋に忘れてきちまった。
 ふと気付いて玄関を振り返る。
 見送りはなかった。誰もいない上がり框に、たった今脱ぎ揃えたばかりのスリッパがぽつんと置かれている。
「長い間、お世話になりました」
 出掛けに礼を尽くして頭を下げた時も、返事はなく、家の中はしんと静まりかえっていた。
 早雲も、かすみも、なびきも、あかねも、皆が揃っているはずなのに。まるで誰もいないみたいだった。
 部屋に戻ってマフラーを取りに行こうかとも思ったが、やめた。
 これほど拒絶されているのに、ふたたびこの家の敷居を跨ぐのは、やはり気が引けた。

 別れというのは案外呆気なく訪れるものだ。
 今まで二年間、一つ屋根の下で一緒に暮らしてきて、朝から晩まで顔を合わせてきた許婚と、今日をかぎりにもう二度と会うことはできないのだから。
 婚約が破棄となったのは、彼等のせいではない。二人の関係はきわめて良好であり、卒業後の展望は明るかった。
 だが、両家の父親がある日突然対立し、かつての修行仲間であった相手に絶縁を言い渡したことにより、全てはひっくり返る。
 激しい口論のすえ、父・玄馬は天道家を出た。
 乱馬だけが取り残された。
 最後まで両家の和解のためにねばったが、早雲が彼の言葉を聞き入れることはついになかった。
「君とあかねにはもう何の関わりもない。早々にこの家を出て、二度とうちの娘の前には現れないでくれたまえ」
 これを限りにと決めて頭を下げた昨晩、早雲は冷ややかにそう告げた。
 その淡々とした様子に、これ以上の嘆願は無用なのだと悟った。

 精一杯、心を尽くしたはずだった。
 けれどどこまでも頑なな両家の親は、二人が出会いもしないうちに勝手に縁談を決めておきながら、つまらないことで喧嘩して、今度は二人の意思を無視して勝手に婚約を反古にしてしまった。
 今までのことは何だったのだろう、と乱馬は思う。
 あかねに歩み寄り、少しずつ心を通わせ、自分の口で約束を交わした。
 くすぐったくて幸せだったあの日々は、一体何のために存在したのだろう。
 急に名残惜しくなって、乱馬は振り返った。
 二階のあの部屋を見上げて、思わず目を丸める。
 あかねが開け放った窓から彼を見下ろしていた。
「あかね……」
 息をのむ。
 何日ぶりに目を合わせただろう。久しぶりに見る彼女の顔は、気の毒なことに、前よりもやつれて見えた。
「大丈夫なのか。おじさんに見つかったら、どうするんだ」
 あかねは首を横に振った。まるで子供が駄々をこねるようだった。
「このまま終わるなんて嫌。乱馬の顔も見れずにお別れなんて……もう一生会えないなんて」
 泣くのをぎりぎりで堪えているような表情に、乱馬の顔もゆがんだ。抑えつけた感情が胸の内で渦巻いている。
「ーー泣くなよ、あかねのバカ」
「泣いてないわよ、乱馬のバカ」
「目、赤いぞ」
「それは……あんたの見間違いよ」
 強がりでかわいげがないのは変わらない。けれど、そんなところも好きだった。
「最後くらいは、明るい顔を見せてくれよ。思い出に残るようないい笑顔をよ」
「……なにそれ。バカみたい」
 あかねはふと微笑んだ。最近ふさいだ表情ばかり見ていたせいか、その表情に胸が衝かれる思いがした。
「ーーやっぱり俺、おまえの笑顔が好きだ」
 今度は乱馬が笑う番だった。どんなに泣きたくても、泣き顔があかねの思い出に残るのは嫌だ。
 あかねは唇を噛んだ。その手に見覚えのあるものが握り締められていることに、ようやく気付いた。
「そのマフラー……」
「あんたの部屋で見つけたの。ーーいる?」
 乱馬は頷いた。両手を差し出し、はらはらと上から落ちてくるマフラーを受け止める。
 去年のクリスマスにあかねがくれた、手編みのマフラーだ。相変わらず不格好だけど、これはこれで気に入っていた。
「ありがとう、あかね」
 首に巻いてみると、それはまだ彼女の手の温度で温かかった。
「ありがとう」
 あかねは泣き笑いのような顔をした。
「今日はずいぶん素直なのね」
「ーーおまえもな」
 どちらともなく笑い合う。心では離れがたさに涙を流しているのに。
「おまえ、ちゃんといい相手を見つけろよ。この俺よりもいい男が見つかるかは、保証できねえけどな」
「そうね。……多分、一生見つけられないかも」
 はらはらと雪が降ってきた。今はまだ小降りだが、今夜は積もりそうだ。

「幸せになれよ、あかね」
「乱馬こそ、お幸せに」

 彼女のいない未来に幸福があるだろうか。
 きっとないだろう。
 ただ、いずれ時が喪失の悲しみを紛らわせてくれるのかもしれない。
 それまでは耐えるしかない。一人修行にでも明け暮れて、我を忘れて。

 曲がり角を曲がっても、まだ後ろ髪を引かれるような感じがした。
 運命を逸れるとはこういうことなのかもしれなかった。











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