祈り | ナノ

祈り


 かの姫君は、月の宮に棲む天女であらせられたそうだ。

 人々の口にのぼった噂は、都から遠く離れた山村に暮らす捨丸の耳にまで行き届いていた。
 ーーかの姫君。
 いずれ劣らぬ尊き身分の貴公子達からの求婚をにべもなくはねのけ、しまいには御門の求めすら拒んだという。
 名は、なよ竹のかぐや姫。
 竹から誕生した、光り輝くように美しい姫君。
 十五夜の晩、月からの使者が連れ帰った尊き天女。
 ーーそのような姫に関する外聞のどれもが、捨丸にとっては意味をなさないものだった。

 わずかな時間ではあったが、かつてこの山で捨丸は姫と共に生きた。
 わらべ唄を唄い、瓜を盗み食いし、雉を捕まえ、土にまみれて共に笑い合った。
 タケノコのように日々長じる不思議な少女。
 姫は、捨丸にとっては可愛い妹分だった。
 けれど、離しがたい大切な娘でありながら、姫がいつか自分を置いて山を去ることをいつも予感していた。
 ーーあの常人離れした娘は、おそらくここに属する者ではない。
 案の定、姫はある日忽然と山から姿を消した。
 仲間達と雉鍋をしようと約束した次の日、待てど暮らせど姫は現れず、心配して家を訪ねてみればそこはすでにもぬけの殻だった。

 それからの姫を、捨丸はよくは知らない。
 自分が生きることで精一杯だった。姫との別離をいつまでも悔やんでいるひまなどなく、時に追われるようにして枯れかけた山を離れ、貧困に苦しみ、盗みを働き、親を亡くし、妻を娶った。
 家族を連れ、姫と過ごした山へ帰ってきた。
 姫とつかの間の再会を果たした。
 心を通わせようとした。かなわなかった。
 そしてまた、別れた。
 だがそれも夢の中の出来事でしかない。

 姫が生じたという竹林にたたずみ、捨丸は目を閉じる。
 風にさやさやと揺れてこすれ合う竹の音。
 この音に抱かれて、姫は竹取の翁に見出されるのを待っていたのだ。
「なあ、タケノコ」
 静謐をならす竹の音に耳を傾けながら、誰にともなく捨丸は語りかける。
 なよ竹のかぐや姫だとか、深窓の美姫だとか、月の宮に棲む天女だとか、そんな大それた名称はあの姫にはふさわしくない気がした。
 捨丸にとっては、いつまでもいつまでも、可愛くて愛しい「タケノコ」でしかないのだから。
「いいな。今度この地に生まれてくる時はーー絶対に俺から離れるなよ」
 言葉にしてみて初めて、自分がどれほどそれを望んでいるかが分かった。捨丸は鎌を持つ手を強く握りしめる。

 手離すのではなかった。
 牛車に乗る姫に出会った日、奪ってでも連れ帰るべきだった。
 いや、それよりもっと前、都に旅立った姫を追いかけて引き止めるべきだったのだ。
 一度道を違えてしまえばもう交わることはない。

 二度と後悔したくはない。
 だから離さない。今度こそはきっと。
 地べたを這いつくばるような生き方しかできないとしても、きっと離さない。
 どんなに苦しくても、共に生きるのだ。
 あの姫とふたり、母なるこの大地に抱かれて。

「帰ってこいよ。必ず、俺のところへ」
 どうか、どうかまた会えるように。


 めぐりめぐって月は満ちる。
 数え切れないほどの満ち欠けを経て、月はついに青年の祈りを受け入れるーー。



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