花嫁 - 23 - 「帰りたい。ここから出して」 娘の繰り返す我が儘に、奥方はこまったような顔をした。 「わたくしの可愛い姫や。そなたの家はまぎれもなくこの屋敷でしょう?ここを出て、他にどこへ帰るというのですか?」 「私はあの森に帰りたい!兄弟達のいる、あの森へ──」 がくりと肩を落とすサン。肩口まで伸びた髪は朝お付きの女童がきれいに纏めてくれたはずだが、今は鳥の巣のようになっている。完璧に着付けられた衣装も、今ではまるで物乞いのような有様だ。 ──サンがこの中条家の「三の姫」となってから、三月もの時が過ぎようとしていた。 しばらくは母の優しさに戸惑い、どうしてよいか分からずに内に引きこもっていた彼女だった。だが、人間の輪に囲まれる閉塞感と圧迫感に耐えきれず、何度も屋敷の塀を越えようとした。そしてそのたびに、屋敷の者達に引きずり戻された。 これで、一体何度目だろう。 「姫──。この母のことが、そなたはそれほどに疎ましいのですか?」 奥方の悲しげな目に、じわりと涙が浮かぶ。籠に封じられた鳥のように自由を切望するサンだが、生みの母が嘆くさまを目の当たりにしては、その翼も気弱に竦んでしまう。 「そういうわけでは……。私はただ、山犬の私には、ここの暮らしは性に合わないと言いたいだけで──」 言いにくそうにどもるサン。人間嫌いのもののけ姫が、この奥方には非情になることはできなかった。聖なる自然を侵す人間など八つ裂きにして皆殺しにしてやっても事足りぬと思う彼女でさえ、生みの母を前にしては夜叉の心を見失ってしまう。 それというのも、あの清らかな人間の青年と接することによって「情け」というものを知ったからだろうか。 「失礼します。奥方様、姫君」 障子がすっと開き、客人が静かに頭を下げた。サンをこの屋敷へ連れてきた、相馬家の若君だった。 「ああ、ようこそいらっしゃいました。景朗殿、どうぞこちらへ──」 奥方は袖で涙を隠して立ち上がると、茶菓の用意を申しつけに行くといって、客人と入れ替わりに部屋を出た。 衣擦れの音が消えるまで待ってから、景朗は口火を切った。 「姫君、お変わりありませぬか」 しかしアシタカのことを考えているサンにはその声は届かず、ぼんやりと中庭を眺めているばかり。 それでも景朗は気分を害した様子もなく、むしろ、武士とは思えぬほど穏やかな微笑をたたえてサンを見守るのだった。 女童が茶菓を運んでくるまで、サンは彼の存在に気付かずにいた。胡桃の香りに鼻をひくつかせ、振り向いた時にはじめて「あっ」と驚いたように声を上げた。 「お前、何故ここにいる?」 「許婚を訪ねてきてはいけませんか?」 やんわりと聞き返され、サンは顔をしかめた。 奥方いわく、どうやら二人は、両家の合意のもと、生まれる前から「許婚」と決められていた仲だそうだ。 が、生後間もなく賊に浚われ山犬の生贄となるべく捨てられた身としては、そんな契りは知ったことではない。 「いつもいつも鬱陶しい。私はお前を『許婚』などと認めはしないぞ」 胡桃をがりがりと噛み砕きながらサンがぼやくと、青年は微笑を絶やさずに小首を傾げた。一本に結った、長い髪が背中で揺れる。 「野性味あふれるあなたの姿も、なかなかお美しい」 「ふん。生憎だが、こんな私を『美しい』と思う変わり者は、他にもいるんだ」 ──アシタカ。 小さな声で彼女が呼んだその名を、景朗は聞き逃さなかった。 アシタカの顔つきは日毎にいっそう緊迫感を増していた。 あちこち転々とするうちに季節がうつろい春になった。雪解けを迎えたというのに、消えたサンの行方は依然として掴めない。 野を越え山を越え、幾つもの里に下りて訪ね回ってきたものの、めぼしい手掛かりは得られずにいた。 もしや行き違えたのでは──と、今は山犬とともに来た道をとぼとぼと引き返している。 「様々な匂いが入り交じっている。サンの匂いは……いや、ないな」 小高い丘から人里を見おろす山犬は、それでも未練がましく鼻をひくつかせる。が、すぐに癇癪を起こした。 「くそっ。いまいましい人間共の匂いに鼻が馴れてきた!」 アシタカは悲愴な表情でもと来た道を振り返っていた。 「これだけ探しても手掛かりがまったくないとは、いったいどういうことだろう。──サンが心配だ」 「もしかすると、どこかに閉じ込められているのかもしれないな」 山犬の呟きに彼はハッと目を見開いた。 「そうか。外に出られずにいるなら、人目に触れることもない!」 人を完全に閉じ込めておくことができるほど大きな屋敷は、この界隈にそう多くはない。せいぜい、二、三程度だろう。 これで調べるべき場所はかなり絞られた。 ──アシタカ。 愛しい娘の呼ぶ声が聞こえるような気がする。 彼は目を閉じ、どこへいるとも知れない恋人へささやいた。 「大丈夫。待っていてくれ──きっと見つけてみせるから」 【続】 back |