花嫁 - 20 - 「今、なんと言った?」 アシタカは険しい眼差しで山犬の兄を見た。よほど急いで戻ってきたらしく、息を切らしながら、山犬はもう一度繰り返した。 「サンが、さらわれた──。人間共に」 にわかには信じがたかった。 「数日前から、見知らぬ人間共がやたら森をうろついていることには気付いていた。だが、奴らがサンを拐かそうなどとは──」 山犬の兄弟にしても同じ思いのようだった。二頭は悲しげに深くうなだれていた。 「……夜明け前のことだ。起きて湧水を飲みに行ったきり、サンが穴蔵に戻らなかった。コダマがサンの危機を知らせてくれた。すぐに人間共の匂いを追ったが、既に森を出た後だったのだ──」 アシタカは歯を食いしばった。 「山犬よ。それは確かに、タタラの者達ではないのだな?」 「……タタラの匂いはしなかった。おそらく村の外から来た人間共だろう。何のためにサンを狙ったのかは、見当もつかんがな」 山犬の兄は弟に向かって一声鳴いた。弟は力強く頷くと、踵を返して森へと入っていった。 「弟には留守を預けた。この俺の留守中に、穴蔵を荒らされてはかなわぬからな」 アシタカは険しい表情をいくぶんか和らげた。 「私を連れていってくれるのか」 「不本意ではあるがな──」 己の背に跨がるよう、山犬は視線で促した。 「サンを救えるのは、お前だけだ」 地面に残るかすかな匂いを頼りに、アシタカを乗せた山犬は妹の行方を辿った。 飲まず食わずのまま、一日走り続けた。運が悪いことに、昼過ぎから雨が降り出してサン達の匂いをかき消してしまっていた。それでも諦めがつかず、水溜まりに鼻を突っ込んだりしながら、泥だらけになって手がかりを探し求めた。 いくつかの村を通り越した。アシタカも山犬の背から降りて自分の足で走った。時おり村人達に聞き込みをしたが、なかなか実りある情報は得られなかった。 「さあ、人攫いの連中なんて見かけなかったねえ。どこかしらのお偉いさんのお輿が通りかかったくらいで……」 夜になり、雨がみぞれ混じりになったかと思うと、あっという間に雪に変わった。 一日中雨風に打たれ続けたアシタカの身体はもはや氷のように冷え切っていたが、彼は山犬の傍らを走ることをやめなかった。 「……お前、顔が蝋のようだな」 横をちらりと一瞥して、山犬が呟いた。 「人間の体はよく冷えるのだろう。サンもそうだ。だからこの時期は俺か弟にくっついて離れん」 「確かに、そなた達兄弟は温かそうだ」 そう言って微笑むアシタカの耳が、寒気で赤く染まっていた。 「小僧、お前は近寄るなよ。俺の体で暖をとれるのはサンだけだ。可愛い妹だからな」 山犬はフンと鼻を鳴らした。 でも、意地悪をされたのに、なぜかアシタカはどことなく嬉しそうだ。 また一つ手がかりもなく村を越えてから、山犬は気になって訊ねてみた。 「お前、さっきから何がそんなに嬉しい?」 アシタカは既に表情を引き締めていたが、前を向いて走り続けたまま独り言のように囁いた。 「──嬉しい?そうだ。こんな時に不謹慎かもしれぬが、確かに私は嬉しい」 「何故だ?」 「そうだな……」 立ちのぼる息を目で追うと、白い月が煙たい空にかかっていた。アシタカは目を細めた。 「サンを救えるのは私だけだと、そなたが言ってくれたからな」 【続】 back |