花嫁 - 19 - アシタカは大弓を握り締めた。 「あなたと話したいのは、他でもない。サンのことです」 水面に手を浸していたシシ神が、掌に水をすくい上げて、指のあいだからこぼした。 「さて、どのような話かな?」 弓のことを語るときと変わらぬ、穏やかな口調だった。 水面に広がる波紋を見下ろしながら、アシタカは意を決して告げた。 「──もう、隠し通すことはできなかった。サンに私の本心を打ち明けました。サンを誰よりも愛しく思っている、と」 五色の尾を持つ蜻蛉がシシ神の肩にとまった。シシ神は彼に背を向けたまま、静かに尋ねる。 「そしてもののけ姫は、そなたになんと返した?」 アシタカはそっと目を伏せた。 「──二人の心は同じところにある、と」 答えを聞いたシシ神は、そうか、と呟いた。 「だが、それはまことであろうか……」 思わぬ反論に、アシタカの眉根が寄る。 「それはどういうことでしょうか」 「アシタカ」 シシ神の眼に曇りはない。 「そなたにサンは救えぬ」 アシタカははっとした。 サンの母、モロの君の言葉が耳元によみがえった。 同じことを、恋敵からも言われることになろうとは──。 「サンは人を憎み、森の仇となしている。人に見捨てられ、人に失望したあの娘に、今更、人に戻れというのか?」 「……人に戻れ、とは言いません」 「しかし、そなたのものになるということは、すなわち、そういうことではないのか?」 シシ神は立ち上がり、アシタカを見下ろした。 「そなたと所帯を持ち、田畑を耕し、タタラを踏み、子を産み育て、村人と交わって生きる。そのようなことが、あの娘にできるだろうか。果たしてサンの心は、救われるであろうか──」 アシタカはそのようなサンの姿を脳裏に思い描いてみた。そして、それが決して彼女にとって幸福な未来にはなりえないだろうことを予感した。 「……いいえ。それでは、サンは救われないでしょう」 「では、なんとする?」 「共に生きます」 「どのように?人であるそなたが、どのようにあの娘と『生きる』というのだ?」 アシタカの目許がゆるんだ。 「森の主よ、あなたは私を誤解している。サンが人でないというのなら、この私も同じだ。──この私もまた、タタリ神より呪いを受けたその時から、人であって人ではない存在へと成り果てたのだから」 シシ神はふっと笑いながら目を閉じた。 「我が目には、そなたほど人らしく映るものは他におらぬがな」 「かつて蛮族と虐げられた私の里において、髷をとくことはすなわち、死を意味しました」 少し伸びた髪の毛先をつまみながら、アシタカは言う。 「だから私は、人であって人ではない。──私は自由だ。人にも森にも、何者にも属さず、何者にも縛られはしません。ただ一人、あの娘をのぞいては」 シシ神はゆっくりと頷いた。 「そなたの覚悟はよく分かった。勇敢な若者よ、今日はもう下がるがよい」 理解してもらえただろうか。 わからない。だが、確かに手ごたえを感じた。 命じられたとおり、アシタカは踵を返す。 血相を変えた山犬の兄弟と出くわしたのは、森の出口でのことだった。 【続】 back |