花嫁 - 18 - | ナノ

花嫁 - 18 -




 暗く湿った穴蔵に帰ってくると、サンはようやく息が付けた。
 山犬の兄弟と二言三言交わしてから、寝床の筵に横になる。仰向けになってごつごつした岩肌をながめていると、額に水滴が落ちてきた。額を手のひらで押さえながら目を閉じる。
 おさえつけていないと、今にも笑い出してしまいそうだ。げんに口の端がぴくぴく動いてい危なっかしい。
 最高の気分だった。天にも昇れるような心持ちでいた。
 ──アシタカが、サンを想っている。そしてサンも、アシタカを想っている。
 彼が彼女を抱きしめたいと思う。彼の胸は心地よいと、彼女は思う──。
 二人の心は同じところにあるのだ。離れては飛べない比翼の鳥のように、二人は互いを求め合っている。
 ああ、嬉しい──。
 嬉しくて、たまらずに、脚をばたばたさせる。
「サン、何を興奮しているの?」
 かたわらの弟犬が片目を開けて尋ねてくると、サンはこらえきれずににやにやした。
「お前みたいな子どもには、まだ早いよ」
「なんだ、それ」
 子ども扱いされた弟犬は不満げに鼻をならした。
「ねえ、サンはなんだってこんなに上機嫌なんだろう?」
 いきなり問われて、穴蔵の見張り番である兄犬はやれやれと肩を竦めた。
「ほうっておけ。何か良いことがあったんだろう」


 翌朝、アシタカは朝早くに森へ入った。
 目覚めたばかりの精霊達のささやきを聞きながら、奥へ奥へと分け入り、清らかなシシ神のすみかへと足を運ぶ。
 木と木のあいだから姿を現した訪問者に気付いたシシ神は、水辺での羽繕いを中断した。
 今朝のシシ神は不思議な姿をしていた。一糸纏わぬ人の身体であるが、背中に白く輝く鳥の羽根を生やしている。長い髪が胸をすべり落ち、その毛先が水に浸っていた。
「珍しい客だ」
 シシ神は素直な感想を口にした。彼の周りを、瑠璃色の蝶がひらひらとただよっている。
「あなたと話がしたい。──許していただけますか?」
 シシ神の視線が、アシタカの目から、何も握られていない手元へと移る。
「新しい弓は、手に入れたか?」
 アシタカは首を横に振った。
「やはりそうか。東の大弓が恋しいのであろう?」
 シシ神はふいに視線を逸らした。アシタカがつられてその方向に目を向けると、苔むした木の幹に、失われたはずの大弓が立て掛けられてあるのだった。
「あの弓は美しい。はるか東方に立つ尊い木を母に持つからであろうな」
 シシ神はほほ笑んだ。
「持って行きなさい。打ち捨ててしまうにはあまりにも惜しい弓だ」
 アシタカは木の幹に近づき、弓を手に取った。弦を弾いてみると、正常な森の気をゆるがすような力強い音がした。
「こちらの用は済んだ。次はそなたの話を聞かせてもらおうか」
 シシ神はゆったりと衣を羽織った。



【続】

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