花嫁 - 17 - | ナノ

花嫁 - 17 -




 アシタカが怪我の手当てをしてもらって以来、タエは以前よりも頻繁に外に出るようになっていた。
 幼い頃から病弱であまり日の目を見ることのなかったタエが、ときおり村娘たちの寄合に顔を出すほどになったことに、村の皆が驚きを隠せずにいた。
「おタエちゃん、あんたずいぶんと人が変わったようになったねえ」
「なにかいいことでもあったのかい?」
 威勢のいいタタラの村娘たちにわらわらと囲まれて、はじめはいささか気圧され気味だったタエだが、すぐに打ち解けて彼女らに馴染んでいった。
 タエの変わりようを一番に喜んだのは、無論彼女の両親だった。病弱で内気だった娘が、とつぜん人心地に目覚めたのか、自ら村人の輪に入っていったのだ。引きこもりがちな娘の行く末を案じていた両親にとっては、願ってもない吉兆だった。
 そして、タエによい影響をもたらしてくれた若者の名を、彼女の両親が──タタラの娘たちが──そして村人たちが知るようになるまでに、そう長くは掛からなかった。

 四方八方から注がれる好奇のまなざしに、アシタカはなんともいえない居心地の悪さを覚えた。
 ──理由はわかっている。
 彼とタエがよい仲である、という噂が広まっているのだ。
 もちろん、まったくの事実無根だ。
 だがこのせまい村の中、噂というのは流行り病よりも早く広まってしまうもので、いくら彼が否定したところで追い付くものではなかった。
 さらにアシタカの頭を悩ませるのは、タエが満更でもないらしいということだ。
 道端ですれ違うときには、こちらが恥ずかしくなるくらい顔を真っ赤にして逃げ出していく。かと思えば、親切にもおすそわけをもって夕餉時に訪ねてきたり、繕いものはないかと聞いてきたり──。
 そういうわけで、村人たちの誤解はさらに深まっていくばかりである。
 さすがのアシタカも、すっかりお手上げ状態だった。
(困ったものだ。どうしたらよいだろう……)
 溜息をついてふと顔を上げると、アシタカが買う米の量を計っている売り子がにやにやしていた。嫌な予感がした。
「あんた、おタエちゃんとこの婿になるんだって?」
 買ったばかりの野菜の束をおとしてしまった。
 まったくもって初耳である。
「誰がそのようなことを?」
「誰がって、みんな言ってるよ!あんたたちは言い交わした仲なんだろう?」
 なんという誤解だろう。あまりのことに、アシタカは両手で顔を覆った。
「私には、寝耳に水なのだが……」
「んもう、照れなくたっていいさ!みんな知ってることなんだから」
 彼の挙措を照れ隠しと勘違いした売り子が、ばしばしとその肩を叩く。「奥手」な彼を励ましているつもりらしい。
「あそこの家はね、代々商いをやってるんだ。村の外から来る品物は、ぜんぶおタエちゃんのおやじどのが買い付けてるんだよ」
 それはアシタカも知っていた。タエの父・弥助は村の外と通じる商人で、ついでに言えば、村一番の金持ちだった。
「あの家の婿ともなれば、あんた、ゆくゆくはあの大きな屋敷の主人になって、弥助さんの跡を継ぐことになるんだろうねえ。あそこはおタエちゃん一人きりだから……」
 売り子の目に羨望のまなざしが浮かんだ。アシタカが想像だにしない未来を、彼女は勝手に造り上げているのだろう。
 米を受け取る際、彼は思わずつぶやいていた。
「──言っておくが、私とタエはそういう仲ではない」
 空想にふける売り子がそれを聞き届けたかは、定かではない。

 買い込んだ食材を囲炉裏のそばに置いてから、アシタカはふたたび外に出た。
 すでに日は沈み、冷気が肌を刺すようだ。その冷気にまじって、上から突き刺さる鋭い視線を感じた。
「そこにいることは、わかっている」
 アシタカは屋根を振り仰いだ。そこに、月を背にして、面妖な面をかぶった影が立っていた。
 風ではたはたと、影の纏う白い毛皮が揺れている。
「──私に会いに来てくれたのか?」
 申し訳ないやら、嬉しいやらでアシタカは眉を下げて微笑んだ。
 だが、面をつけた影の顔は窺い知れない。
「会いに来た。……片を付けるためにな」
 低い声で言うと、影は躊躇なく屋根から飛び降りた。そして──
 いきなり、手にしていた槍を激しく突き出した。
 間一髪、アシタカは後ろへ飛びすさった。
 が、その頬のすぐそばを、槍が音を立てて通り過ぎていった。
 体勢を立て直そうとする彼に、影は容赦なく槍を突き出してくる。
 どうにか攻撃を避けながらも、アシタカの顔は徐々に色を失っていく。
「一体どうした、サン?」
 面の奥でサンは唸った。
「貴様に話すことなど何もない。──死ね!」
 アシタカは驚愕に目を見開いた。
 それが決して冗談などではないことを悟った。彼女からは激しい殺気が立ちのぼっている──。
「一体、何があったのだ!」
 頬の切り傷を手の甲で拭いながら、アシタカは必死で面の奥の瞳に訴えかけた。
 ──ようやく攻撃が止んだ。
 俯きながら、サンは面をゆっくりと外した。
 露わになったもののけ姫の顔は、深い失望と悲しみに満ちていた。
「サン……」
 アシタカは言葉を失った。サンがかすかに笑いながら首を振る。
「──片を付けにきた。それは本当だ」
 槍を地面に突き刺し、サンはその場に崩れるようにしてしゃがみ込んだ。
「こんなつもりじゃなかった。お前を襲うなど、そんなつもりは決して……」
 消え入るような声でそう言うと、彼女は静かに肩を震わせた。
 先程まで凍るような殺気を放っていた娘とは、まるで別人のように弱々しい姿だった。
 アシタカは片膝を地につけた。震える手で彼女の肩に触れ、遠慮がちにそっと顔をのぞき込む。
「サン。──私は、そなたに殺されるなら、本望だよ」
 サンがはっと顔を上げた。目が合うより前に、力強く抱き締められていた。
「だが、殺される前に理由が知りたい。──私の何が、それほどまでにそなたを失望させた?」
 サンは目を閉じた。涙が一粒、頬をすべり落ちて、彼の肩に吸い込まれていく。
「……お前が、人間の娘と言い交わした仲だと、聞いた」
 溜息が彼の口をついた。
「村人の噂を、聞いてしまったのだね。そなたにだけは聞かれたくなかったのに」
 サンが目を伏せた。
「本当なのか?……お前は、その娘を想っているのか?」
 アシタカの目元がゆるんだ。彼女を抱き締める腕に、力がこもる。
「はっきり言っておこう。あれは、根も葉もない噂だ。私はその娘を懸想してはいないし、契りを言い交わしたこともない」
「……本当か?」
「ああ、本当だ」
 私が信じられないか?と、アシタカは笑った。サンが言葉に詰まると、彼は手のひらで彼女の頬を包み込んだ。
「ではこうすれば、信じてもらえるだろうか──?」
 咄嗟のことで、サンは目を閉じることすらできなかった。
 無防備に開いた唇に、彼の唇が触れていた。
 驚きのあまり、息ができなかった。
 口付けをかわすことの意味を知らぬほど、幼くはない。
 端整な顔が信じられないほど近くにある。
 長い睫毛の数を数えられそうなほど、すぐそばに──。
 顔にかっと血がのぼった。
「私には、想う娘がいるのだ。私の心は、その娘のもの。そしてその娘とは、」
 唇を離したアシタカが、瞬きをした。
「そなただ。──サン」



【続】

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