花嫁 - 16 - もやもやした気分のまま、夜は更けていく。 弟犬の柔らかな毛に顔を埋めながら、サンはようやく深い眠りに落ちていった。 ──夢を見た。 夢の中でサンは夜空を見上げていた。星がひとつの大河のように連なる美しい星月夜である。空を追うようにゆっくり歩き出すと、雲に隠れていた月が少しずつあらわになっていった。 するとふり仰ぐ夜空のどこからか、銀に輝く一匹の美しい鳥が現れた。サンの目を楽しませるように、金銀さまざまの星が瞬く空中で、その鳥は何度か旋回してみせた。 やがて、それを見ていたサンの身体が軽くなっていった。足は地面を離れ、背には羽根が生えたかのようになる。遠かった夜空が近付いてくる。鳥のかがやく赤い目がサンを見る。 だれかが地上から呼ぶ声が聞こえる──。 手の傷が疼いた。 タエに手当をしてもらったものの、横になってみるとまだひどくずきずきした。 (……傷の治りが遅い) それは心に起因することだと分かっている。シシ神とサンが睦まじく寄り添う残像を頭から追い払わない限り、この傷もまた治らないだろう。 アシタカは玉の小刀を取り出して、目線の高さに掲げた。その鋭い切っ先は、やはりあの娘の横顔に似ているように思えるのだった。 (サンは私を切り裂く刀だ。刃物なのだ。触れたものは容赦なく斬られる。どうすればそれを包み込んでやれるだろう──) 夜の闇はひとりで耐えるには重すぎる。 だがアシタカは眠りには逃げず、一晩中サンのことを思った。 目を閉じれば、サンがあの美しい鳥に召される夢を見てしまいそうで怖かった。 目が覚めても、まだ夢の続きを見ているようだった。 シシ神の森もタタラの村もはるか遠く、眼下には紺碧に染まった広大な海がひろがっていた。上空に吹く冷たい風が頬をなぶっていく。だが、不思議と寒くはない。 シシ神がサンを抱いて、空を飛んでいた。 「おはよう、もののけの姫よ」 サンは落ちないようにしっかりとシシ神の首につかまった。声が裏返った。 「わ、私は穴蔵で寝ていたはずだ。兄弟達と。それがいつのまに、こんなところに──」 シシ神が悪びれもなく笑う。 「驚かせてすまぬ。私がそなたを連れ出したのだよ、あの穴蔵から」 「……兄や弟に噛みつかれたのでは?」 彼らが穴蔵の侵入者をただで招き入れるわけがない。 ところがシシ神は無傷だった。 「サン、私を誰だと思っている。この鎮守の森を守る者、シシ神であるぞ。獰猛な山犬を子犬のごとく手懐けるなど、私にとってはいとも容易きこと」 サンは面食らった。 「──何故、私を連れ出したのですか?」 「そなたに見せたいものがあるのだ」 シシ神は少年のように顔を輝かせた。 「さあ、あちらが東の方角だ。空と海の際を、よく見ていなさい」 仕方なく、言われたとおりにその方角に目を凝らした。 ──まもなく、それは始まった。 暗くとけていた空と海の境が、少しずつ白んでいく。黒々とした波に淡い光がそそがれ、きらきらと輝いている。輝き疲れた星は、ひとつ、またひとつと眠りにつき、夜空に浮かぶ月もまた、次第に薄れていった。 夜が明けたのだ。 水平線から現れた太陽は、呑み込まれてしまいそうなほど壮大だった。 「そなたと私は今、この世の誰よりも日に近いところにいる」 瞬きを忘れたサンの耳元で、シシ神がそっと呟いた。 「日に近いということは、すなわち天に近いということ。──ごらん、日の神からの使者が来た」 太陽の中から、一羽の鳥が飛んでくるのが見えた。金色に輝く美しい鳥は、シシ神のもとへたどり着くと、くるりと回って愛らしい童子に転じた。 「我が主に代わり、謹んでご挨拶申し上げます。つきましては主より、言づてを授かって参りました」 「謹んで享け賜わる」 鈴の音のような童子の声に、シシ神はおごそかに応じた。 「日の神はなんと仰せであるのか?」 童子は深々と頭を垂れた。 「かの森における貴殿の労をねぎらい、贈り物を賜るとの仰せです」 「それはありがたい」 シシ神はサンに微笑みかけた。 「サン、そなたは何が欲しい?」 「えっ?」 突然の問いかけに、サンはあわてふためいた。 「いや、私はなにも──」 「まことか?」 顔が近い。焦るサンに、なおもシシ神は問い詰める。 「まことに、サンには欲しいものがないのか?」 「──ありません」 「なんと、欲のない娘であろうか」 シシ神の目は優しさに満ちていた。 「では戻って日の神に伝えておくれ。褒美はまた次の機会に賜る、とな」 童子はうやうやしく頭を下げた。 「謹んで承りました。では、そのようにお伝えいたしましょう」 使者が飛び去っていくと、夜はすっかり眠りにつき、明けの空がいっそう青く澄み渡った。 【続】 back |