夜明け | ナノ



夜明け  (ハク千)




 ボイラー室はいつ来ても、釜の中に放り込まれたかのように蒸し暑かった。
 お湯を沸かすための火を焚く場所なのだから、当然といえば当然ではある。しかし、それにしてもこの部屋の暑さは尋常ではなかった。日々足繁くここに通っている千尋でさえ、その暑さにはいまだに馴れることができずにいて、せいぜい三十分も留まり続ければ全身汗だくになってしまう。
 トンネルの向こうの夏も暑い。けれどここの暑さに比べれば、都会での真夏日などたかが知れていた。
 千尋は座布団を枕に寝転がり、ボイラーに向かって一列になって石炭を運んでいるススワタリたちを眺めていた。炉の中で燃える赤い火に向かって、力一杯石炭を放り投げていく彼ら。その小さな身体の一体どこからそんな力が湧いてくるのだろう。
「働かなければ、ただの煤に戻ってしまう」
 釜爺はそう言っていた。それは脅しのようだった。
 ススワタリたちは、そうなりたくないから、こうして重い石炭を運び続けている。
 けれど。
 ただそこにあるだけの煤でいることと、身を粉にして働かなければならないススワタリであることの、どちらが彼らにとって良いことなのか。
 千尋には分からない。
「ね、どっちなのかな?」
 金平糖の残りをばらまきながら千尋が聞くが、声なき彼らが答えるはずもない。
 我先にと金平糖を奪い合う小さな生き物を見下ろしながら、千尋は優しく笑った。
 もしかしたら、これのために彼らは生きているのかも知れない。

「今日はハクの奴、遅いなあ」
 薬草をすりつぶしていた釜爺が、ふいに振り返って千尋を見下ろした。胡座をかきながら、千尋は水干の首もとから中に団扇で風を送り込み始めた。
「うん、遅いね。もう帳場の仕事は終わってるはずだけど」
「湯婆婆に呼び出しでも食らったか?」
「それか、変なお客さんがいたのかも……」
 千尋は心配そうに溜息をついた。ボイラーの火は既に消え、ススワタリ達は巣に帰った。しんと静まり返ったボイラー室の中で、釜爺がすりこぎを使っている音が響き渡っている。
 終業後はここで落ち合うのが、ハクと千尋の日々の習慣だった。ここから外に出て、夜明けの散歩と称した逢い引きをする。正面玄関から堂々と出て行かないのは、千尋が他の従業員の目を気にするからだった。もっとも、二人の関係は既に油屋全体の知るところであり、そんなことは気に掛けなくてもいいのだが、ハクは千尋の意思を尊重してくれる。
 千尋は膝の間に顔を埋めた。首筋を汗が伝っていくのがわかった。
「今日は来ないのかもしれないから、もう戻ろうかな……」
 諦めかけて顔を上げた千尋の目を、ふいに後ろから延びてきた手が覆った。
「もう行ってしまうの?」
 耳にささやくその声は、待ちわびた声だった。 千尋は振り返り、その首に勢い良く抱きついた。
 ハクはしっかりと千尋を抱き止めた。
「遅れてすまなかったね。青蛙の不始末の事後処理に追われていて、時間がかかってしまった」
「ううん、いいの。ーーお疲れさま、ハク」
 少し身体を離して、ハクは釜爺を見上げたが、彼は既に鼾をかいて眠っているようだった。
「釜爺を起こしては気の毒だ。外に出ようか」
 ハクは千尋の手を取り立ち上がった。うん、と千尋は頷いた。
 ボイラー室を出て行く二人の背を、釜爺が薄目を開けて見守っていた。

 外に出ると、心地よい風が吹いていて、汗をかいた千尋の身体を冷ましてくれた。
 夜明けが来て息をひそめた繁華街を、ハクと手を繋いで歩きながら、千尋はふと油屋を振り返る。
「このまま、逃げてしまいたい」
 そんなことを、少しだけ思う。
 けれどそれを言葉にしてしまえば、彼女は石炭か子豚に変えられてしまうだろう。
「何を考えているの、千尋」
 隣を歩くハクが、千尋の様子を察して顔をのぞき込んできた。
「何か仕事でつらいことがあった?」
 千尋は首を横に振った。
「何もないよ。ただ、この時間がいつまでも続けばいいのにって思ったの」
 ハクの足が止まった。顔が曇る。自分の質問が不適切だったと感じたようだった。
「そうか。そなたは、つらいと言ってはいけないのだったね」
「……ハクもね」
 二人は顔を見合わせた。千尋が笑うと、ハクも微笑んでくれた。
「やっぱり、ハクは笑ってる方がいいよ」
「千尋もね」
 二人はより強く手を握り合った。
 やがて川にたどり着いた。蛙の石像の口から少しだけ水が出ていたが、夜明けが来たからじきに止まるだろう。石造りの階段から向こう側にある川は、水位が驚くほど下がっていて、遠くの時計台まで見渡せる。水底の草がいまにも顔をのぞかせそうだった。
「ススワタリ達はーー」
 千尋が呟いた。
「金平糖をご褒美に働いてるような気がするんだよね」
 千尋の横顔を見つめながら、ハクは声を出さずに笑う。
「それは、一理あるかもしれないね」
「でしょ?」
 千尋は足元に視線を落とした。
「わたしも、ハクをご褒美に働いてるようなものだから」
 ハクの目が優しく細められた。
「随分と、思い切ったことを言うね」
「だって、本当のことだもん」
「では、本気にしてしまうよ?」
 ハクの両手が千尋の頬を包み込んだ。口づけを予感する千尋だったが、意に反してハクは突然くすくすと笑い出した。
「何がおかしいの?」
 唇を尖らせる千尋に、ハクは笑いを堪えながら言う。
「千尋が、あまりにも可愛いから」
「可愛いから笑うってどういうこと?」
 ハクは不満そうな千尋をなだめるように抱き寄せた。
 彼の肩に顔を押し当て、優しく頭を撫でられている千尋は知らない。幸せのあまり泣きたい衝動をハクが必死で堪えていることを。
 川が消えていく音がする。
 不思議の街に、朝が来た。





end.





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